コカインの隠語としての「チャーリー」

成宮寛貴のスキャンダラスな事態が世を賑わせております。

ワイドショーを見てたら、成宮寛貴は「チャーリー」という、最近一部で使用されている隠語を用いてコカインを発注していたのではないかと報じていました。

 

で、「チャーリー」と言えば、レッチリですね。

 

Stadium Arcadium

Stadium Arcadium

 

 このアルバムの中に「CHARLIE」って曲がありまして。初期のアンソニーヒレル、ジョンフルシャンテなど、レッチリと薬物ってのは切っても切れない関係にあるわけでして。この曲の「チャーリー」って言葉は間違いなくコカインの隠語として用いられているわけで。どうでもいいことですが、この隠語は結構な昔から使われていたわけです。でまあこれがめっちゃ名曲なわけで。 特にサビが超カッコイイんですよね。

 

So much more than
Charlie's wakin' me
To my core and
Charlie's shakin' me
And tell my story
And Charlie's makin' me
And Charlie's makin' me smile
Oh oh now

 

この度の成宮寛貴関連の出来事と彼の心境に想いを馳せながら聴くと、より味わいが深まります。

 

 「チャーリーとチョコレート工場」とか「チャーリーズエンジェル」とか「チャーリー浜」とか、チャーリーと名のつくものには、サイケデリックで超現実的なものが多いですね。何か関係があるのかもしれませんね。んなわけない。

追記:2019年3月12日未明、電気グルーヴピエール瀧さんがコカイン使用で逮捕されました。芸能活動にいつ復帰できるのかわかりませんが、復帰の際は禊としてピエール瀧改めチャーリー瀧として活動するとユーモアもあって良いのではないでしょうか(やけくそ)

 

さらにどうでもいいけど、彼が黒か白かは置いといて、虹色であることをひた隠しにしようとした背景には、テレビで活躍するいわゆるおカマたち(男色にまつわるあらゆる属性を全て性同一性障害とくくっていいのかわからないので、あえておカマで統一します)の言動が大いに関係しているのではないかと思ってます。視聴者やら制作側から求められてるからか知らんけど、いつまでも笑わせるってよりは笑われる側に立って、イロモノ的な格好で露骨な性的言動をせざるをえない昨今のおカマ界隈の哀しい事情から、拭うことのできない庶民の差別感情を汲み取ってしまうのは私だけでしょうか。まあひところよりはだいぶ大人しくなりましたが。

 

今のところカズレーザーくらいですよ、セクシャリティで笑われようとしていないのは。彼の場合はバイセクシャルですが、あそこまで堂々と飄々としてると、笑おうにも笑えないですね。それでもテレビ番組は、カズレーザーセクシャリティなぶぶんで楽に笑いを取ろうとする企画をたまにやります。カズレーザー本人がああいう笑いをしたがっているとは思えないのですが、立場も弱く、局から求められて、実際にそこそこウケるんだったら、やらないわけにはいかないのです。マツコデラックスも、しばしばその辺の葛藤を思わせる発言をしています。彼だって、見えない何かに、不本意な言動を強いられているわけです。このような、「おカマ」が後天的に備えてしまったお笑い的属性については、芸能界でおカマ界が成り上がった過程に関わってくる話なので、個人で抗うのは難しいわけです。それは、心の薄皮を剥かれるような思いなのかもしれません。

 

おカマ界のパイオニアであり、こんにちのおカマたちが歩く道をこしらえたカルーセル麻紀は、舐められたらいかんという気概と、アンタッチャブルアウトローな世界の住人独特のオーラをむんむんに放つ、近寄りがたい妖艶さを持つ存在でした。笑われないように気を配っていたわけです。当時は「おカマは怖い(強い)」という風潮もありました。彼らを襲ったであろう理不尽な日常と闘うためには、身も心も強くならなければならなかったことは想像に難くありません。舐めはしても、ナメラレちゃあいかんわけです。カルーセル麻紀は、未来のおカマたちが抱えるかもしれない恐れをしっかり捉え、それに対する危惧を持って活動していました。どうしてこうなってしまったのでしょうか。

 

余談ですが、成宮寛貴のコカイン疑惑に対して、直感的で、それでいて曖昧な説得力を感じるのも、この手の界隈の人たちが、一般社会から拒絶されたアウトローな存在だという現実があるからではないでしょうか。

 

今やおカマは日本中に認知される存在になりました。それは間違いなく彼らの悲願でした。以前と比べておカマが暮らしやすい社会になったし、全体的な生活レベルも向上したでしょう。しかし、彼らが嘲笑の対象であるという認識は、根強く残っていると言わざるをえません。手っ取り早く認知度を向上させるために、イロモノとしてのエンタメ的テレビ出演を繰り返したおカマたちは、その戦略が見事にハマってしまったがために、そのピエロめいたキャラを脱皮することができなくなってしまったのです。その副作用として、一部の人たちから嘲笑の眼差しが向けられているのではないか。その哀しみの構図は、コカイン中毒者のそれと酷似している・・・。ぼんやりそんなことを考えていると、どうしようもないやるせなさが込み上げてくると同時に、なんでノンケの私がこんなに苦悩しとるんだとバカバカしくなりつつも、そういやオナベって見かけなくなったなーと思う今日このごろです。