チャーハンをつくろう
チャーハンを作るとき、あらかじめご飯と卵を混ぜてから炒める手順のことがいつも頭をよぎる。私はこのやり方がどうしても気にくわない。ご飯と卵をグッチャグチャに混ぜたその見た目が私の食欲を大いに削ぐからだ。
向こうの言い分はこうだ。
「ご飯がダマになりにくい」
それ以外に挙げられる理由(というかもはや言い訳に近いが)は
「卵を炒める手間が省ける」
そこに美味しさに対する探求心はない。堕落にもほどがある。
卵を炒める手間なんて10秒もあれば十分なのに、そんな手間を省いてまでいったい何がしたいというのだろうか。
チャーハンの卵は食感が楽しめる程度には原型を留めているべきだ。そうでなければ初めから卵を入れなければいいではないか。ご飯にしても、わざわざ卵と混ぜてグチャグチャにしなくても問題ない。よほど学習能力が欠如していない限りダマにはならない。むしろ卵のとろみを纏わせることでご飯の味と食感が損なわれる。その代償を支払って得るのはたったの10秒だ。溶き卵とご飯を混ぜ合わせる時間を考慮すれば、唯一の時間的なメリットも無に帰す。要するに何も意味がない行為、いやご飯の良さも卵の良さも台無しにするとても愚かな行為なのだ。
ではどうしてこんな愚かな行為が知恵として知られるようになったのだろうか。テレビのせいだ。よくよく考えてみればテレビでチャーハンを作るとき、見た限り100パーセントご飯と溶き卵を混ぜている。まず卵を炒めて皿に移して、という手順は今まで見たことがない。
つまり、テレビ的な理由によって、溶き卵とご飯は混ぜられているのだ。その理由とは進行と手順の簡素化、それ以外にはない。そこに「こうしたほうが美味しいから」という理由はない。そもそも味覚は人によって違うし、たいていの料理は不味くないのだから極論どのやり方でも大差はないはずだが、二種類以上のやり方があるのにある一つの手順だけしか用いないのは明らかに何かしらの意図がある。それが美味い不味い以外の料理そのものとは関係のないことだけは間違いない。その意図を隠して「こうしたほうが楽ですよー」「美味しいですよー」と印象を操作を行う。実にアンフェアだ。
とはいえ、一番初めに「溶き卵とご飯を混ぜ合わせてから炒める」という手順は、ある中華料理屋のやりかたとして紹介されていたと記憶している。だからそこまで不味くはないのだろう。私も数え切れないくらい「溶き卵とご飯を混ぜてから作ったチャーハン」を食べているのだろう。実に不本意だがそれはまあ良しとする。ただ、繁盛している料理屋のやり方としては合理的なやり方だろうが、家庭でわざわざ手間をかけて(家庭でやる限り、手間が少なくなるというのは嘘だ。むしろ手間が増える)やるほどのことではない。
と、そんなことを考えてしまう。
それはそれとして、卵を溶いているときにふと思う。卵は命だ。私は聖なる命を箸でグチャグチャに掻き回している。これからイイ感じに半熟に火を通して一旦皿に移そうとしている。なんだかとても残酷なことをしているような気がした。だからといってどうということはない。