ブログを毎日書いても文章力はつかない
わたしはこうして文章を書いている。
比較的、更新している方だと思う。
ブログなりなんなりで文章を書くことが、とにかく書くことが文章力アップにつながる、という趣旨の意見を散見するが、決してそのようなことはない。というのがわたしの実感だ。この場合、文章力というのは、情景や心情を上手に表現することであり、それは、文章でなければできない表現でなければならない。空気や雰囲気をまとわせた文章、非現実的な光景がありあり浮かぶ文章、そういった文章を書けることが、文章力が高い、ということだ。ウケるとかバズるみたいなことに文章力は必要ない。
小説家の文章を読むと、いつも打ちのめされる。良い文章を読むと、時に羨ましいを通り越して、妬ましくて続きを読みたくなくなることがある。じぶんとの決定的な差を感じる。この差は、文字をどれだけ書いているか、という次元のものではなく、もっと違う部分での差のように思えてならない。この違いを理解できていない限り、どれだけ文章を書いても意味がないのではないかと思う。
それは「わかりやすい」ということになるのだろう。しかし、「わかりやすい」と「よみやすい」を混同してはいけない。似ているが、まったく違う。ありえないことを、わかりにくいことを、違和感なく頭に思い描けるような表現こそが「わかりやすい」文章だ。いくら「よみやすい」文章を書いたところで、内容がよくわからない、ということはよくある。内容がおかしい、ということもよくある。そういう人たちは、たぶん「よみやすい」文章が良い文章だと思っているのだろう。読みやすさばかり気にして、内容については何も考えていないのだろう。確かに読みやすいのだが、内容が空っぽなので、読んだ端から頭から抜けていく。抜けが良い文章と言えば、なんだかお洒落な感じがするが、抜けは抜けでも間抜けではいけない。
「わかりやすい」文章は、例外なく読みやすい。
しかし、そもそも文章力が高い人、というのはそんなにたくさんいない。どんなに頭が良くても、文章力が高いわけではない。哲学者の文章に読みにくいものが多いのは、文章力が低いからだろう。それは訳者の文章力の問題なのかもしれないが。
たとえば、記事に写真や絵などが挿入される。こういう記事は「わかりやすさ」の助けになることがある。しかし、ただそれっぽい写真や絵を貼り付けるだけでは「よみやすい」ものにしかならない。良い写真に文字が必要ないように、良い文章には写真が必要ないからだ。
つまり、文章を読むことでしか想像できないものをどのように描くのか、というところに文章力の源泉があるように思う。そして、わたしにはそれがない。それはおそらく、習得できる技能なのだろう。しかし、ただ文章を書いているだけでは習得できないということはよくわかった。
ではどうすればいいのか。
- 本を読む
- 体験する
体験することでしか芽生えない気持ち、得られない視野、至らない思いがある。体験は、文章力だけでなく、いろいろなものを育む。もちろん、ただ体験するだけではいけない。本を読むことと同じだ。
- 書く
ソレを理解しているかどうかは、ソレを教えることができるかどうかでわかるという。同じように、ソレを文章にするためには、ソレを理解している必要がある。またはソレについて、じぶんの考えをもっていなければならない。
この考えが正しかろうことかどうかは別にして、こうして書くだけなら簡単だが、じっさいは難しい。でなければ、作家が職業として成立するわけがない。まあ、作家にとって文章力が絶対的な資質ではないことは、山田悠介がすでに証明しているのだけれど。

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