あの日は晴れていただろうか
将棋を指した。最後の最後で逃げ間違って詰まされた。(こう逃げれば一手早いだろう)と思ったから踏み込んだのにもかかわらず(こっちに逃げたらどうなるのか)なんて疑問が湧き、(いけるかもしれない)なんて思うようになって、実際にその局面になったとき、当初の逃げ切れる手順ではなく、どうなるかわからない方の手を指したくなっている自分がいて、どういうわけだか迷っている。で、時間に追われて指した手は、後者の方で、やっぱり詰んだ。というか簡単に詰む方だった。こういう迷いが出た時はたいてい間違う。考えればすぐにわかるような間違いなのに、どういうわけだか気がつかない。間違う方をどうしようもなく指したくなっている。魔がさすとはこのことか知らん。
あまりにもムカついたので、山田風太郎の死言状を読んでいる。エッセイなのだが、作家ならではの気難しさ文面の中にも、好々爺っぷりを滲ませる茶目っ気ある表現があって、小説とは全く違う。さっきの「か知らん」というのもそこによく出てくる。まあ全部読んではいないのだが。で、最初の方に、年表についてのエッセイがあって、その中に「赤穂浪士の討ち入りの際に雪は降っていたか?ということが問題にされたことがあった」というようなことがことが書いてあって、思わず目を閉じる。
記憶していることは色々とあるが、その時の天気がどうだったのか、よく覚えていることと、覚えていないことがある。どのくらい暑かったのか、寒かったのか、晴れていたのか曇っていたのか、そういった細やかなことまで思い出せる記憶は、どれくらいあるだろうか、と。例えば、ある時の記憶をたどった時に、晴れていたから、雨が降っていたから、よく覚えている、ということがあって、それは記憶に大きく影響しているということになる。もちろん、その印象も天気によって違ったものになる。つまり、討ち入りの際の天気は、その物語に大きく関係してくるはずで、極端に言えば「雪が降っているから、今日はやめよう」となったかもしれないわけで。ま、赤穂浪士のことは全く知らないのでこのへんにしておきますが、あの日、大雨に打たれながら見送った赤い傘のことも、いつか朧になる日が来るのかと思うと、なんとも哀しい。

- 作者: 山田風太郎
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2005/11/05
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