熱量を昇華させた読み物が淘汰されつつある

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※最初にくれぐれも言っておくが、この増田を否定するわけではない

 

この増田に対する絶賛の嵐に恐ろしく哀しくなった。

(そもそも、なぜ増田なのかが俺にはまったくわからないのだがそれはおいとく)

 

正直なところ、文章の出来はあんまりよろしくない。

これは主観的な評価ではない。

 

現在を書くためには過去を知らなければならない。

増田は過去の掘り下げが無さすぎる。たとえば、タイトルは「渡辺昭の孤独な闘い」となっているが、そもそも棋士はみな孤独なのだ。それが分かった上で渡辺の孤独を書くならば、彼が他と比べてどう孤独だったのかを知っていなければならない。それは将棋の歴史、棋士たちへの敬意でもある。

羽生はもちろん、18歳で名人戦に挑戦するもぼっこぼこにされて、それでも名人を目指して二十云年七転八倒をしてきた加藤一二三、まさにたった一人の世代だった谷川浩司、こうした知識があって初めて、渡辺の孤独が描けるわけだ。

渡辺世代には(ちょっと年下だが)前名人の佐藤天彦や振り穴王子などと呼ばれた広瀬章人糸谷哲郎などなどがおり今も活躍しているが、まるで渡辺世代にはそうした一流どころが一人もいないかのような書き方だ。まあ羽生に次ぐ数少ない中学生棋士なので他が格下であるという評価はわからないでもない。

要するに、知らないのである。過去を知ろうとしていないのである。今しか見ていないのだ。そしてそれを言葉の厚化粧でごまかしているのだ。

実際はごまかしている意図はないのだろうが、過剰な装飾で文章のボリュームを稼いでいることだけは確かだ。中継中の棋譜解説や人物紹介、ここ最近の将棋記事の切り貼りを書きたかったわけじゃなく、おそらくは将棋好きな自分の熱量を示したかったのだろう。なればこその過剰な装飾なのである。

例えば

1三の地点に、飛車と角が次々に飛び込む。鮮烈な寄せ。驚異の見切り。

将棋から、地割れの音が聴こえた気がした。

地割れの音が聴こえた、はさすがに・・・

観戦しながら、頭が割れるような、足元が崩れ落ちるような感覚に陥った。こんなことは、もう後にも先にも訪れないかもしれない。

まさかクスリをやっているわけでもあるまい。ならばこれらはまぎれもなく完全に脚色のためだけの装飾だ。渡辺や藤井ではなく、自分を飾るための比喩表現。文章のほとんどがソレで出来上がっている。

そんな文章が評価されているのがとてつもなく哀しい。エモいとか言われててツラい。金払ってでも読みたいとかプロですか?とか言われててアンビリバボー。同じ文字列から読み取る情報が天と地ほど違ってヤバたにえん。

 

細かく例を挙げてもキリがないし、最初に書いたように増田を否定したいわけじゃないからこのへんにしとく。

 

熱量を示すのは良いことだ。将棋が好きなことを文章にして披露するのも良いことだ。もっと将棋界を棋士たちを深く知ってほしい。もっと将棋が好きになり、もっと将棋が楽しくなるのは間違いない。

 

俺が哀しくなったのは、もっともっと将棋を愛し、もっともっと素晴らしい文章を捧げている人たちにまったく光が当たっていないことだ。

この増田が絶賛されていることが、結果的にそれらの人たちを遠ざける結果になってしまっている事実だ。

 

俺は増田の記事とそのブクマの一連の流れに以下の記事と同じものを見た。

blog.tinect.jp

まず、端的な事実として、「負の感情を煽る情報は注目を得やすいし受けやすい」っていうものがあります。

怒り。

憤り。

嫉妬。

不快感。

こういう感情を強烈に惹き起こす情報は、そうでない情報よりバズる率が高いですし、注目を受ける率が高いです。

この記事は「負の感情」を煽ることについて書かれているが、それだけではなく、今回の増田は逆だ。ただ正の気持ちを叩きつけているだけだ。しかし、それも同じようなことなのではないだろうか。

 

本来、熱量は対象への知識や経験など何か別のものに昇華される。例えば音楽が好きならギターを弾いたり、好きなジャンルの音楽をたくさん聴いたりみたいな。文章化はその後にある。好きという熱量を別のものに昇華しないアウトプットはあるべきではない。とても刹那的で儚い。この増田のように自分語りの域を出ない。長い目で見るまでもなく、誰のためにもならない。

読み手の質などとは言いたくないが、いかがなものかと思う。

 

ずーっと前に書いたが、炎上商法的文章活動や上のリンクとも通じるものがある。

憎しみや怒りなどの負の感情、増田のような正の感情、どちらもすさまじい熱量だろう。それが昇華されないまま承認欲求を満たしてしまうと、そこから育まれた生まれるはずの作品が生まれなくなるのだ。

 

孵下する前の卵を美味しい珍味だと食べ続けて、しまいに卵を産む鶏がいなくなってしまうような、そんな感じだ。

 

俺は熱量のある人がその熱量を何かしらに昇華させた文章を読みたいのだ。

 

将棋に関するそうした文章が十年前くらいはたくさんあり、たくさん読んでいたが、今はどれも更新されなくなった。将棋に限らず、そうした文章そのものがなくなりつつある。それは今回の増田のような昇華が省かれた文章が乱造され評価されていることと関係があると考える。

ネットが行き渡り、だれもが文章を公開できるようになって、「文章化」そのものが昇華行為と錯覚されるようになったと思う。 アウトプットの敷居が低くなり、評価の質も低くなり、刹那的に消費されるようになってしまった。何年たっても面白く読める熱量のこもった文章は深海を潜って見つけ出さなければ見ることができない。

 

まあなんていうか、俺が年取ったのか周りが若くなったのか。そういう意味でも哀しい。