理系の人

今日は防音室を組み立てたわけだが、やっぱりこれは一人でできることではない。

ちなみにひと月前に俺ともう一人がバイトしてその場で今日の予定を入れたのだが、もう一人は綺麗にバックれた。

資材の搬入から組み立てまでの間が一ヶ月空いたのは米国から技術者を呼ぶから、ということだった。それだけで俺はちょっとガタイのいい白人を勝手にイメィジしていたのだが、現れたのは韓国の方だった。この防音室を設計した理系畑の人だ。これがまた良い人でね。

俺は理系の人との出会いでは当たりを引きやすい。まあ大学を出たわけでも理系的な人生を送ってきたわけでもない俺の出会いというのもたかがしれているが。例えばとあるリーマン時代の上司は某業界の設計や計算におけるトップランナーだった。某工場で派遣してた時のたった一人の相棒兼師匠はその工場の化学薬品の配合において、かけがえのない存在だった。そして今回の韓国人のおっちゃんは尊い志から自ら防音室を設計し、日本中を駆け巡っている。

そんな理系の本物である彼らに共通することは、常に合理的であり、合理的であろうとしていることだ。

具体的には、怒らない、朗らかに人と接する、噛み砕いて説明をしてくれる、誰かに悪意を向けることはない、などなど。

なぜなら、それが合理的だからである。怒っても、怒鳴っても、憎んでも、嫌っても、なにも解決しないのだ。大事なことは目の前の問題を解決することであり、その経験が後に繋がっていくことだ。そのために必要なことは怒ることでも憎むことでもないことは誰もがわかるだろう。しかしそれが実践できるかどうかはまた別の話だ。事実、理系だろうが文系だろうが、一般的に「賢い」とされているステータスを持つ人たちが怒ったり憎んだりしているのを俺たちは毎日見ている。そうした人たちは理や知で我を制することができなかったバッタもんで、賢いではなく小賢しいと言うべき取るに足らない人たちなのだ。

とはいえ、真に本物の人たちにはもう一つ共通点がある。強い諦念だ。その諦念が合理的ではないことは理解した上で、それでも拭いきれない諦念を朗らかさで包んでいる、そんな印象だ。

俺はそうした理系の人には比較的ウケがいい。別に知的だからでも理的だからでもない。誠実で、かつ狡いからだ。この二つは矛盾しない。というより、人間が矛盾しないなどということはありえない。清濁併せ飲む、という言葉があるように、矛盾をどのように受け入れるのか、という考えには、その人の人間性やともすれば人生そのものが色濃く反映される。大事なことは矛盾しないことではないのだ。正義だの正解だの正論だのは豚の餌だ。自身の矛盾を省みることができれば、他罰的な、排他的な考えにはならない。なるわけがないのである。それを学問によって身につけるか、武道によって身につけるか、経験によって身につけるか。プロセスに違いあれど、行き着く先は同じなのではなかろうか。もちろん俺が身につけているとは言わないし、上に挙げた人たちがそうかどうかはわからない。しかし、同じものが見えていないにしても、同じ方向を見ているという直感的なシンパシーをお互いに感じているのではないか、俺はそう思う。そう思いながら大村競艇に熱く激しく脱力するのだ。