わからん

近くに住む親類のおっちゃんの家で昔使っていた建具を処分したいとのことで、私が間に入ることになった。農具置き場兼車庫になっている小屋には二階のスペースがあって、脚立を掛けて登ると、ほこりとか土とか虫のたまごみたいなのとかが散乱している奥に、二十ほどの建具が立てかけてあった。デザイン的にも状態的にも売り物にはならなんやろなあと早々に見限り、あたりを物色していると、いくつかのダンボール箱を発見。中には昭和の頃の古い本が詰まっていた。数学の専門書や、一眼レフカメラのガイドブックや、文庫版のライトな哲学書など、理系を思わせる書籍が多く、ギタースコアの雑誌もあった。ちょうどウッドストックの特集が組まれていたので、だいたい40年くらい前のなのかな、わかんねえけど。静物の油絵もあった。おっちゃんはたぶん当時でもハイカラな感じだったのだろう。俺は畑を行き来する姿しか見たことないし、あまり喋らずよく笑う人だという印象しかなかったから、けっこう驚いた。状態が良いものを見繕って持ち帰り、中をパラパラとめくる。オーストラリアの旅行ガイド本に一枚のコアラの絵葉書が挟まっていた。

笑(まさかこの時代にこの使われ方をしているとは!)

ヤア, 元気でやっていますか?

この手紙が着く頃には, おそらくスチュワーデスになっているのでしょうか?

と始まるこの手紙は、オーストラリア滞在中に書かれたものだ。文章を書く欄はびっしりと埋まっているのに、最後の方でいくつかの文字を塗りつぶすように消して、そのまま終わっている。おそらく行きずりの女にでも宛てたものだろう。そして、この本に挟まっているということは、この絵葉書は投函されなかったのだ。すっげエモい。

この手紙の存在はおっちゃんのささやかな思い出であり、腰が完全に直角に曲がってしまい、会話もおぼつかず、危ないからやめてくれと親族から止められているのに毎日よぼよぼと畑に出てはよぼよぼと芋や豆を育て、玄関におすそ分けを置いていくおっちゃんにとって、それはもう忘れられし過去なのである。そんな過去を俺だけが知ってしまった。

俺がこうして書いていることは、、いつでもどこでも誰でも読めてしまう。たぶん何十年経っても読めてしまう。俺が消さない限り、そのままの形でずっと残り続ける。そんな文章と、投函できなかった異国からの絵葉書。本人以外、誰にもその存在を知られるはずのない文章。なんだろう、この違いは。

この仮想空間に積もっていく文章は、どんな内容であれ本質的にとても軽い。そんな気がしてしまう。

ふと過去にもらったラブレターを思い出す。俺は全部捨ててしまったが、やっぱり残しておいた方が良かったのかな、なんて思ってしまった。でも読み返すには重すぎるんだよなあ。