「負け方」や「引き際」ってものすごく大事なことだと思う

例えば麻雀だったりパチンコだったりで遊んだ帰り道に「あそこでやめときゃ勝ってたんだけどなー」ってなることがよくある。やったことはないけど、株やFXをやっている人の話を聞いても、そういう言葉がよく出てくる。


つまり、欲望に負けて、引き際を間違えてしまい、勝てていた勝負に負けてしまった、ということだ。そして、どんなに反省しても何度も間違えてしまうのだ。


勝っているところでやめればいいだけでしょ?簡単じゃんって思う人もいるかもしれないが、言うは易し行うは難し。実際の話、引き際を間違えない人なんているわけがない。例えば将棋では、直前に指した手が間違っていたことを認めるような手が指された時、解説の人は必ずそれを強調して話す。その苦しさを、歯がゆさを、知っているからだ。間違いを認めることの大切さと難しさを知っているからだ。


勝っている時があったのならまだ良い方で、本当に大変なのは、ずっと劣勢が続いている時や、はなから勝ち目がない勝負をしなければいけなくなってしまった時、もう少しで勝てるかもしれない、このまま続ければもしかしたら状況が良い方に変わるかもしれない、という希望の光が見えている(と錯覚している)時だ。このような状況で、負けを認めて自ら退くことのできる人はなかなかいない。これはいわゆる損切りというやつだが、思い入れが強ければ強いほど未練を捨てきれないものなのだ。


ここ十数年、日本では偉い人が間違いを認めなかったり、さらに恥を上塗りするような拙い隠蔽工作を行なったりする事例がたくさん明るみになり世間を騒がせているが、これらも同様だ。間違いを認められない人、謝れない人はどこにでもいる。得をすることには永遠に貪欲でいられるが、損することは一瞬でも嫌がるものなのだ。どんな人でも、負け方や引き際を間違ってしまうものなのだ。


なんでこんなことを書いているかって、今日、BSジャパンで、最近エベレスト登頂で滑落死した栗城史多さんの追悼番組を見たからだ。それは2010年のエベレスト登頂の様子を撮影したドキュメンタリーだ。


彼はこの挑戦も失敗するのだが、その引き際はちょっと見ていられないほど酷いものだった。


山頂付近で一人限界に達してしまった栗城氏に対し、クルーは全員一致で下山すべきとの判断を下した。しかし彼は登頂を諦めきれずにクルーの判断を受け入れようとしなかった。「もう少し登りたい」「危険だからいますぐ降りてこい」「登れる気がする」「命を大事にしてくれ」「いやでも、、、」そんなやりとりが何時間も続く。その間も栗城氏の容態は悪くなっていく。彼を説得するクルーは、最後には怒りや呆れを含んだ口調になっていた。そして彼は何時間もぐずり続け、結局、夢間近で登頂を諦める。最初から諦めて下山していれば、と違う意味でこっちが歯噛みしてしまった。


彼は冒険や挑戦を視聴者と共有することを目的の一つとして活動をしていたわけだが、私は冒険や挑戦においてもっとも重要なのは「負け方」や「引き際」だと思うし、こういう企画だからこそ、それらが切実さをもって伝えられるのではないかと思う。栗城氏の挑戦は、生命の扱いも思想も非常に危ういし幼いと思った。


勝ち続ける人生なんてありえない。冒険にも挑戦にも失敗はつきものだ。時には逃げなければいけないこともある。そうした負け方や引き際の決断の大切さを伝えることを日本は軽視しすぎなのではないかと思う。