南無大師遍照金剛

夜中一人でトイレに行く途中に転けて肋骨を折ってから祖母の容態が急変した。

医者がそろそろ危ないと言うので顔を見せに行った翌日の深夜に亡くなった。

祖母の家系は一族みんな、いわゆる「がいな人」だが、中でも祖母は筋金入りの「がいな人」だった。もう亡くなって二十三年になる祖父の妹さんがチャキチャキと手伝ってくれた。このおばあさんが八十五とは思えないくらいものすごく元気な人で、よく車に乗るらしく誰よりも道に詳しいし、笑い声が少女のようでかわいらしいし、見た目はそれなりだがとても若いおばあちゃんだった。よく話す人で、話がとても面白かった。当時の日本は産めよ育てよの時代で、十人産むと国から表彰されたので、十人以上の子を持つ家庭も珍しくなかった話や、曾祖父が議員に立候補した際、当選当日に家に帰ってこず心配していたら、思いっきり選挙違反をしていて捕まってた話とか。

祖母は習字の先生をしていて、私は小学生の頃に習っていた。力強く思い切りのいい線を褒めてくれる人だった。家の整理をしていると、そんな祖母の書が何点か出てきた。祖母は「まだ未熟だから」と言ったかどうかはわからないが、自分の作品を絶対に人に見せようとはしなかった。大人の背丈くらいある隷書体が、急遽式場に飾られることとなった。その書は、上手い下手を超越したような、制約から解放されたような、とても不思議な魅力のある書だった。何度も何度も書き直しただろう。読経の最中、これ書いてる時なにを思ってたんだろうなーと思いながら書を眺めていた。

山の上にあるこじんまりとした火葬場に着くと、他に一件の葬儀が執り行われていた。祖母の遺体が焼かれて骨になるのを待つ。そろそろ予定の時間だということで、みな控え室からロビーにわらわらと出てとりとめのない話をしていると、あちらの葬儀が終わったらしく、ご遺族の方々がちらほらとロビーに出てきた。亡くなった方の妻とおぼしき老婆が、今にも崩れ落ちそうなくらい号泣しながら息子とおぼしき男性に支えられて私たちの前を横切って行った。そのあまりもの取り乱し様を、あんなに泣くもんかね、などと言いながら見ていた。他の人たちも、みな沈鬱な表情だった。私たちが悲しんでいないわけではないが、祖母は闘病生活が長かったので、ある程度の覚悟はとっくに出来ていたのだ。

母は子供が死んだから老婆が泣いているのだと思っていたようで、私が白髪の老人の写真が入り口に飾ってあったから泣いているのは妻だからじゃないかと言うと、小さい声で「夫が死んだからってあんなに泣かないわよ」と言い、母と近くで聞いていた親類のおばちゃんたちは「まあ」と声を殺して笑った。それが綾小路きみまろ風の冗談だということはすぐにわかったが、女性陣がいち早く反応を返したことに、一瞬、切実さを感じた。あちらの方は事故で不意に亡くなったのではないかと思った。