「生産者がお金を払う世の中」のさらに向こう側には

私が子供の頃はまだ汲み取り式のトイレがある家がちらほらありまして、その糞尿はお金を払ってバキュームカーなんかで処分してもらっていたわけですが、もっと昔になると、百姓がお金を払って各家庭の糞尿を買い取っていたのですね。正確にはお金ではなく、その糞尿を肥料にして育てた作物が糞尿代として家庭に支払われていたわけです。

こうした事実から、山田風太郎は「時勢によって「生産者」のほうがお金を支払う立場になることがあり得る」とし、いずれは小説もそうなるのではないか、と「死言状」というエッセイに書いています。

こういったブログや文章投稿サイトなどに投稿された創作物が出版されたり映像化されたり、といったことが珍しくなくなった現在ですが、確かに、それが良いことか悪いことかは別にして、生産者はただ生産していればいい、という考え方は淘汰されつつあります。嫌味な言い方をすると、作品に心血を注ぐことよりもSNSを駆使して積極的に自分を売り込むことのほうがマネタイズにおいて重要な世の中になりました。というよりは、SNSなどで横のつながりを持っていないともうお話にならない、という時代ですね。

私は誰とも繋がりを持とうとしないブログ運営者ですが、突然私のブログにスターをつけてきた人を訪ねてみればブログを始めたばかりの人で、その人があっという間にホットエントリー常連になり、読者数百人数千人を抱えるブログ運営者になっていく様をいくつも見てきましたけれども、そういう人の書く文章が軒並みつまらないとまでは言いませんが、ひとつだけ確かなことは、その全員がSNSなどを駆使した営業活動に重きを置いているということです。こうした活動はマネタイズにおける絶対事項となって頂点に君臨しているわけですね。

そうした手法がさらに洗練された結果、金儲けのために金を支払うというわけのわからない人たちが現れ、成れの果てにゴミの生産者がゴミを公衆に撒き散らかすマネタイズが現在のトレンドとなっています。さらにさらに、これによって「とめどなく吐き出されるゴミを掃除する」仕事と「これはゴミだ、と指摘する」仕事を新しく産み出しているわけです。なんならこれらのサイクルをグループ内でやりくりしているわけです。これこそまさに資本主義のあるべき姿と言えます。まあ全部無い方がいいのだけれど。

「死言状」は2005年に出版されたものですが、執筆時期は60年代から90年代にかけてのものです。にもかかわらず、時節に耐える強度を持った面白い見解ばかりで、そんな昔に書かれたものだとは思えません。今のどこの馬とも知れない起業家やコンサルタントやらの未来予測よりもよっぽど読む価値がありますね。

 

死言状 (角川文庫)

死言状 (角川文庫)