悪いことをする時の心構えについて

車で走っていると、ほとんど毎日、信号の無い道路を横断しようとする人を見かける。
20メートルほど歩けば信号があったり、すぐ横に歩道橋があるにも関わらず、目の前の道路を横断しようとする人がとても多い。そしてそれは全員成人だ。朝の渋滞だろうが昼の渋滞だろうがお構い無しに、渋滞の切れ目を虎視眈々と狙っている。老人なんかになると、明後日の方向を向いていていきなり飛び出してきたり、轢けるものなら轢いてみろと言わんばかりに我関せずの精神でよぼよぼと横断したりする。私も何度か轢きそうになったことがある。渋滞の隙間を虎視眈々と狙うよりも、少し歩いて歩道橋を使ったり、素直に赤信号を待つくらいの余裕は持っていたいものだ。

 

かくいう私も赤信号を無視したことは何度もある。


そういえば、はてな界隈で車の走っていない赤信号を渡っていたところ、赤の他人に咎められて立腹した、ということを書いてちょっと炎上した人がいた。その女性ははてな界隈ではちょっとした有名人、というよりはイケない意味で過激な人と認識されている。

 

一連の流れに触れて、彼女が言いたかったのは「車の通っていない赤信号を渡ることについての云々」ではなく「私は正しい」ということなのだろうと感じた。

 

この手の人は、いわゆる「謝ったら死ぬ病」に罹っている人であり、どんな話題であれ、どんな発信であれ、全て最終的に「私は正しい」に持っていく人である。

 

政治家がよくこのように揶揄されることがあるが、ごく最近では豊田真由子議員の例でわかるように、彼らは謝ったら本当に(政治家として)死んでしまう世界に生きているので、いわゆる一般人と同列に扱わないほうが妥当だと考える。よってここでは「自分は正しい病」とする。

 

とにかくこの傲慢さは脳の機能が低下した年寄りや経験の少ない未成年によく見られる症状だが、ブログやツイッターで話題になる人にはこういう人が年々増えている印象がある。ラッパーになって一度も歌わないまま、曲も披露しないまま引退宣言をしたとても残念な三十路越えアルコール依存症の人も、そういう人にやたらと食ってかかるコメント欄の賢人ぶった人たちも、あまねく「私は正しい」病患者である。みんな自分が正しいと思っている。自分が正しいのだから、相手を口汚く罵っても構わないと思っている。相手は軽蔑されるべきだと思っている。結局、全年齢でこういう人が増えつつあるということだろう。

 

話が逸れたけど、彼女だって赤信号を渡る行為が、車が走ってる走ってないの問題じゃなくルール違反にあたることくらいは理解しているはずだ。ルール違反だと理解できる倫理観を持った上で、周りに車が走っていない現状とリスクを秤にかけて、危険がないと判断したから渡る選択を選んだのだ。だからそれを咎められると癪にさわるのだ。そんなことは全部わかった上で赤信号渡ってんだよ!と怒りたくなるのは、自分の行いがよく思われないだろうことを理解しているからなのだ。

 

繰り返すが、私も信号無視をしたことは何度もある。しかしそのことについて「私は正しい」と声を大にして言おうとは思わない。誰に咎められても、そのことにイラついたとしても、それをインターネットで「私は間違ってない」と発信しようとは思わない。

 

いくらそれが論理的に導かれた合理的な逸脱であっても、自分の都合でルールを破ることに対して芽生えるほんの少しの罪悪感をなかったことにはしたくないからだ。その感情は、私が社会に暮らしているという証に他ならない。その感情を否定するのは、社会の一員として社会の中に生きることの否定であり、最終的には、自分が良いと思うんだから何をやってもいいじゃないか。それで誰かが傷ついてもそれは仕方がないね、という考え方になってしまうからだ。まあそう考える人もいるだろう。その考えを悔い改めろと言うつもりはない。ただ、その考え方は今話題の東名高速事故の容疑者となんら変わりない気質の持ち主であると言わざるをえない。


とはいえ、田舎の道路を歩いていて、周りに車が通っていなければ、やっぱり赤信号でも私は渡る。ルールだってこの先たくさん破るだろう。その時、心の奥にほんの少し芽生える「ああ今俺は悪いことをしているな」という気持ちを「でも私は正しい」に上書きすることだけはしたくない。

悪いことをする時に罪悪感が芽生えない心になってしまったら、それはもう畜生と同じだから。