君を咲き誇ろうの歌ってなんだっけ

この時期の雨の日は、中一の時に買ったアズテックカメラのフレストーニアというアルバムが聴きたくなる。一曲目がレイニーシーズンという曲だからかもしれない。なんていうか全体的に雨の日が似合う曲なのだ。レイニーシーズンという言葉から、外国にも四季があるのだとはっとさせられた。アズテックカメラの地元スコットランドは基本肌寒く雨の多い国で、雨季は冬に訪れる。四季があるとはいえ、日本とは気候の様相がまったく違う。東北地方と沖縄地方で言葉や考え方が違ってくるように、気候の違いは国民性にも影響を与えているはずで、それはフレストーニアを聴いていてもなんとなく感じることができる。アズテックカメラが個人名ではなくバンド名だと知ったのはものすごく後の話になる。いまでいうとなんだろう、ZARDみたいなもんかなあ。今じゃないけど。私の中でアズテックカメラは日本でいうところの福山雅治のような印象だ。調べてみるとかなり有名なミュージシャンのようで、前作のアルバムはアズテックのカメラの主役ロディフレイムたっての希望により坂本龍一がプロデュースを手がけていた。このアルバムの曲に限っていうと、2番や最後のサビの前の一小節のテンポやメロディを変化させている曲が多い。jpopでもよくあるやり方だ。例えるならなんだろう、浜崎あゆみの「君を咲き誇ろう」みたいな感じだろうか。 ニュアンス的にはもっとしっくりくる例えがあるはずなんだけどそれくらいしか思い浮かばなかった。少し前に漫画喫茶で寝泊まりしていた時によくかかっていて気に入ってしまったからだ。しかし大ヒットしたjpopを周りと共有する行為にはどうしても恥ずかしさが拭えない。例えば中一の時の遠足で、どういうわけかバスの中で合唱しなきゃいけなかったんだけど、委員の女が選んだのはTRFのマスカレードと当時でも流行を先取りしたDAYONEだった。DAYONEはその女の独壇場となったのだが、その痛々しさはおそらく全員を巻き込んだのだろう、結局その女はいじめられたというか友達がいなくなり不登校になった。例えば私はたまにどうしようもなく太陽の小町エンジェルが恋しくなって、脳内再生でノリノリになるのだが、その時の私は決して無表情を崩さない。あえて厳しい顔をしている時すらある。そんな私の頭の中で太陽の小町エンジェルが流れていて「エーンジェー」とハモっていることは絶対に誰にも知られたくない。私にとって友達の定義とは、このことを言えるかどうかにある。うーん、まったく例えになっていない。とにかく大ヒットjpopが流れた時の気恥ずかしさには慣れることができない。曲だけはない。流行の乗る行為そのものが恥ずかしい。乗るとしてもそれはできる限り人には知られないようにする。なぜなら、過去に血眼になって流行を追い求めた経験があるからで、その時の私がまぎれもなく洗脳状態だったことに気がついたからだ。それが良いものか悪いものかの問題ではなく、そう思わせようとしている勢力の思い通りになっているのが心底気に入らないのだ。それで損をしたとしても、好機を逃したとしても、猫のような警戒心は生来のものなので仕方がない。私がロカビリーが好きなのも、そういったところに理由の1つがあるのかもしれない。これまで様々なジャンルの様々なものが流行させようと試みられたが、ロカビリー界隈の人間だけは流行から一線を置いているような印象がある。ファッションや音楽など一部で流行ることがあっても、決してそれに乗じようとはしない。私が生まれたころにはロカビリーの大ブームが起こったが、流行の螺旋構造から考えればすでに再ブームが到来していてもおかしくないのだが、いまだ一向にその気配はない。音楽に至ってはより顕著だ。かつて一斉を風靡したJITTERIN'JINNやブランキージェットシティなどはわかりやすくロカビリーをリスペクトしているバンドなのにそのあたりが世間に認識されることはなかった。マジックなんかは人気ドラマ刑事貴族の主題歌に採用されるほど登り詰めたはずなのに、ビーバップハイスクールもヤンキーでロックンロールな文化の派生だったはずなのに、やはりロカビリーという音楽が日本に根付くことはなかった。私はリーゼントもしないしボウリングシャツも着ないが、ロカビリーだけは一生好きでいられるし、生きているうちにもっかいくらいブームが来て欲しいと強く思っているし、ブームになったから距離を置くほど独りよがりでもないが、そういう風に低きに流れず世間に媚を売らないと思えるところに魅力を感じているので来ないなら来ないで構わない。ロカビリーって見るのも聴くのも楽しい音楽で、ヒップホップでいうところのリアルをひしひしと感じるわけだけど、ブライアンセッツァーとかマークハーマンみたいな人が出てこないかなあ。