内容の無いコミュニケーションなどあるのだろうか?


 
↑には納得した。
だがこれを受けての↓ブログは↑ブログには違和感を覚えた。
↑に同意であるとしながらも↑ブログを否定的に見ている人と同様の勘違いをしている。
 

 
まず結論を書いておくが、内容の無いコミュニケーションは有る。


コミュニケーションはあまねく意図を含むものかもしれないが、だからといってすべてのコミュニケーションに内容が有るわけではない。むしろ日常においては内容の無いコミュニケーションのほうが多いのではないかと思うくらいだ。

 

例えばズイショ氏記事の長渕剛のくだりだが、なんでこのやりとりをしたのか?と考えると、それは「電車の中での時間潰し」だったり「面白いを共有したい」だったり「そばにいる乗客をクスリとさせたい」だったり色々思いつく。なんにせよそれらはすべて意図だ。彼らは「電車の中で玉音放送長渕剛っぽく読み上げてみる」という行為の意図を互いが了解した上でそれを行ったのだ。

 

改めて、私は「電車の中で玉音放送長渕剛っぽく読み上げてみる」という行為に「内容が有る」とは思えない。というより、彼らはその行為の「内容の無さ」に面白さを見出したのではないだろうか。


もう1つ、ズイショ氏はドナルドトランプに言う「おはようございます」と石原さとみに言う「おはようございます」の違いについても書いているが、ここでも両者の違いは意図だ。


誰に挨拶するかによって言い方もタイミングも声色もお辞儀の角度も変わる。しかしそれは「怒らせないように」「好意を持ってもらえるように」などの発言者の意図の変化であり、「おはようございます」という言葉の内容(意味)はなんら変わらない。


つまりズイショ氏は「内容」と「意図」を混同しているのだ。

 

で、何にでも内容(意味)を見出そうとすることはあまり良いことではない。発言者の意図ではない、見出さなくてもいい否定的な意味を勝手に見出して勝手に気分を悪くしてしまうことがあるからだ。シロクマ氏の記事についた否定的なコメントを見れば一目瞭然だろう。

 

無理やり内容を見出そうとして気分を悪くするくらいなら、笑っていいとも!テレホンショッキングみたいに「そうですね」と内容の無い笑顔を返すほうがよほど健全なのだ。

 

とはいえ、より良いコミュニケーションを望むなら相手の意図を汲み取る努力をしなければならない。相手のことを知ろうとしなければならない。それは「楽しい時間を過ごすため」の努力であり、相手の粗を探して否定するためではない。そうして互いが歩み寄って初めて「内容の無いコミュニケーションによる退屈ではない時間」が成立するのではないだろうか。