火花

夜の11時。手持ち無沙汰にザッピングしてたら番組表に「火花(終)」とあった。やっているのは知っていたが、最初の方で観るのをやめて以来その存在を忘れていた。手垢の付いていないハードカバーが本棚で埃を被っているのを思い出した。

小さい劇場で漫才をやっていた。二人はこぼれんばかりに涙を浮かべていた。今日が最後の舞台らしかった。お客はところどころ笑っていたが、舞台上の主人公の関係者はステージ隅や客席で同様に涙をこらえていた。

観るつもりのない舞台に間違って紛れ込んでしまったような違和感と周りの客の微笑ましい雰囲気に疎外感を覚えて鳥肌が立った。そもそも舞台までわざわざ足を運ぶのはそれが観たい人だけなので、つまり私がその場に居ることはまずあり得ない。そこで行われていることは知りうるすべもなければ知らなくてもいいことなのだ。そういったファンと関係者しかいない舞台を感動的な演出の出汁にしようとしたことに卑怯さすら感じる。

もちろんこれは物語の一演出だから、そこまでの文脈を知っている視聴者は既に主人公に少なからず感情移入している(だろう)から、モニタ越しとはいえ客として舞台を観ているとするシチュエーションにも必然性があるのだと考えることもできる。解散ライブで涙を流すつまらない漫才コンビにいくばくかの共感と感動を覚えることができるのだと考えることもできる。

が、同じ劇中の劇場描写として「キッズリターン」での無法松の漫才描写や劇団ひとりの「青天の霹靂」での最後のマジックのシーンと比べると、その感動の扉は身内以外にはぴったりと閉じられてしまっている。そりゃ漫才の舞台にいる客はみんな観たくてきてるわけだから笑いもするし泣きもする。その共犯的な関係で満たされた密室に視聴者を紛れ込ませて「さあここが泣き所ですよ」と言わんばかりに感動的なつまらない漫才を繰り広げるドヤ感みたいなものが気持ち悪かった。笑いも泣きもリアルなものではなく外部から足されているお笑い番組みたいな嘘くさい感じ。ピースが売れたのも小説が売れたのもこうした商業的やらせによる身内的な生温かいノリがあってこそで、それをどうこう言っても始まらないんだけど、そこに対する当事者ならではの皮肉的な視点が欲しかったなあ。ピースってそういう皮肉めいたネタをやってそうでやってない、言いそうだけど言わない。どちらかというと西野亮廣的であり堂本剛的なんだよな。ちなみにこの辺は同年代。

売れない芸人の描写としては「キッズリターン」で学校の隅っこで漫才をやらされて滑り倒すところから売れて行くまでの断片的な描写は心に響くし皮肉的可笑しさがある。「青天の霹靂」で本人以外観客にも誰にも知られることなくお別れのマジックをする大泉洋は感動的だし演出としても上手い。劇団ひとりと大泉のマジックコントも、そこにいる観客は知らずに楽しんでいて、視聴者は俯瞰的な目線でなお楽しめるという作りも素晴らしい。あざとさや卑怯さがなく清々しかった。

話戻って、もう一人の主人公の顛末も心底気持ち悪いだけだった。最後の露天風呂での一コマも自分に酔っ払った挙句取り返しのつかないことをやっちまった的な涙として若干の共感は覚えたが、キャラの言動には一切心が動かなかった。著者とは徹底的にお笑い観が合わないことがわかった。物腰はやわらかだが品川庄司品川に通じる受け入れがたい何かを感じた。

とはいえこれは映像作品の感想だから、とりあえず小説を読んでみようという気にはなった。

広告を非表示にする