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「星を継ぐもの」を読みながら物語の分業制について想いを馳せる

SF小説「星を継ぐもの」が面白い。ページをめくる手が止まらない。

 

何が面白いのかってその前に、最初に「星を継ぐもの」を読み始めた私は、数十ページで「ようわからんなあ」と思いしばらく寝かせることにした。伊藤計劃の「虐殺器官」を読んだ後に読むことにしたわけだ。

 

そして「虐殺器官」はとてつもなくつまんない超絶怒涛の排泄物だったわけだけど、それでも歯を食いしばり努力して読み進めていくにつれて、「虐殺器官」に対する憤怒の増幅に伴って「星を継ぐもの」についての確信に近い予感がどんどん膨らんでいった。

 

面白いに違いない、そう予感したのは「不味いものを食った後には美味しさを感じるハードルが下がる」という心理的な絶対作用のこともあるが、それよりも「虐殺器官」の出だし数十ページを読んだ私が気づいた両小説の決定的な違いの方が根拠として大きい。そしてこの決定的な違いは、私が近年読んだクソ小説、クソブログ短編小説に共通する「無し」の根拠であった。

 

それらは小説ではなく、脚本であり台本なのだ。脚本や台本はそれのみでは完結しない。演者がいて、撮影があり、編集をして・・・ついでに言えばパトロンがいて広報があって広告を挟んで初めて成り立つ物語なのである。思えばそれら小説もどきのほとんどはまるで初めからそれを狙っていたかのように映像化されている。つまり、小説それ自体ではなんら完成しておらず、演者、演出、撮影、編集諸々の必要作業を読者に投げっぱなしている。だからその手の読み物は説明がましいのだ。

 

本来それらは著者がやらなければいけないことであり、小説家が最低限持っていなければいけない技術なのだが、それらを初めから放棄してしまっているのである。過激でわかりやすいキャラクターと設定とオチだけを用意して(全てあればまだ良い方だ)、それらについて「私がああしようと思ったのは」「どうして私がこうしたかと言うと」的な説明を延々と繰り広げているだけなのである。

 

キャラは物語の中に生きておらず、手足には操作する糸すらついていない。この設定を気に入ってくれたのなら、後はでお気に入りの絵をつけるなり流行りの俳優に演じさせるなりサブエピソードを加えるなり自由にやってくださいというある意味めちゃくちゃに無責任な未完成品なのである。そこにあるのは自己顕示欲の塊だ。

 

正直、そういうある種の分業制のようなコンテンツの作り方はアリかナシかで言えばアリだと思う。時流とは言え、この十数年でそういうものがとても増えたことも好意的に受けとめてはいる。しかし、近年大量生産されているそれらのコンテンツのほとんどがオチやカラクリどころか文章そのものすら拙く、そこに広報の巧さが相まって羊頭狗肉なゴミばかりが目先の利益のために手軽に吐き出されている現状はどうしても首肯できない。本当に評価されるべき人を照らす光量が少なくなるからだ。

 

まだ読んでいる途中だが、「星を継ぐもの」を面白いと感じるのは、文章の中に物語の全てがあるからだ。つまり私にとって「星を継ぐもの」という小説は、「小説である」ということ自体が評価点になってしまっているのだ。なんともバカバカしい話だが、思えば色々なことにそう思うことが増えた。

 

もちろん物語そのものも面白い。読後感は期待を裏切らないものになるだろう。その程度の当て推量くらいはできる。