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読書の楽しみ方について

今日は本屋に行った。ダンジョン飯の4巻を買うためである。

ダンジョン飯を持ったまま小説コーナーをふらふらする。すると山下澄人の本が平積みにされていた。そういえば最近何かの賞を獲ったと何かで読んだから、その影響だろう。山下澄人は、私のブログの数少ない読者の人がとても好きな作家だ。私が覚えていたのは、そちらの影響の方が大きい。砂漠のなんちゃらという本を手に取り、適当に真ん中あたりを開いて読んでみた。その人の書く文章とよく似ていた。いや、似ていたのではない。彼が似せているのだ。

ふと、パトリシア・コーンウェルのことを思い出した。諸事情により、私は「黒蠅」の続きを探さなければならなかった。

  パトリシア・コーンウェルの検屍官シリーズを日本でドラマ化してほしい - friedhead's

  パトリシア・コーンウェル「黒蠅(下)」読了 - friedhead's

 街に一つしかない本屋は品揃えが悪く、整理の仕方も悪い。そして山田風太郎を置いていない。まばらに点在する海外小説のコーナーを見て回り、ようやく発見した。検屍官シリーズの一番後ろにある本が最新のものに違いない。私は巻末を見て唖然とした。黒蠅から後に9冊も出ていたからだ。それも全て上下巻ものだった。「黒蠅」の前作「審問」より前の作品は全て一巻完結だったから、たまたまそれより前の一巻完結の作品のいくつかと「黒蠅」を読んだ私は「黒蠅」が最終巻だと思ったわけだが、たまたま私が勘違いをした「黒蠅」より先は全て上下巻ものだったのである。これを偶然で片付けたくなかった。

そしてさらなる驚きがあった。「黒蠅」の次巻は「痕跡」だったのだ!私は「痕跡」に見覚えがあった。たしか「黒蠅」などと一緒に買っていたはずだ。巻末に見入りながら、私はもう楽しくて仕方がない。これまでになかった方法で、私は読書をいまだかつてないほどに楽しんでいる。ふと思う。これは読書の楽しみと言えるのだろうかと。いや、「間違った」読書の楽しみ方などというものがあるはずがない。楽しむのは自分だ。楽しみ方だけは、自分以外の誰にも決めることができない。本の内容や広告などというものは、ただそれをわかりやすく導いてくれているだけにすぎない。本を読んで得た知識や感情が現実の生活になんらかの影響を与えたとき、それが読書の楽しみの真の姿なのではないか。なんなら何も書いていない本にさえ楽しみを、感動を見いだすことができるだろう。無音のクラシック「4分33秒」のように。

私は家路を急いだ。

帰宅し、まだ読んでいない本を並べた棚へと急いだ。しかしそこに「痕跡」はなかった。「痕跡」は既読済みの本を入れた段ボールの中にあった。そこで「黒蠅」を読む前に「痕跡」を読んだことを思い出した。What a day!

 

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