西野亮廣とそのファンに抱く生理的嫌悪感について

西野亮廣が炎上してるのを久しぶりに見た。

 

いまさら詳細を説明するまでもないけど、絵本をタダにするとかなんとかで燃えてた。タダになった絵本を見に行った。読んでる途中、踏みたくもない広告を二度も踏んでしまった。登場人物全てが西野亮廣に見えるような作品だった。キングコングの漫才や西野作品の全てに共通する特徴は、登場人物全てが西野亮廣に見えてしまうことだ。終始、俺が俺がなのである。俺は生理的に無理。

 

で、彼の言動に対して、反論したり、軽蔑したり、賛同したり、さまざまな反応がネットで乱れ飛んでいる。不思議なことに、彼を擁護する人はもちろんのこと、彼を批判する人たちもまた、西野亮廣的な屁理屈を展開していることが多く、西野亮廣に抱くソレに似た生理的嫌悪感が、ふつふつと心の水面に沸いては弾ける。生理的嫌悪感を抱くのならば見なければいいじゃないかと思われるかもしれないが、むしろ逆だ。社会の中で生きていると、関わりたくない人とも関わらなければならない場面に必ず出くわす。生理的嫌悪感は自分が他人に見出した特徴に対する感情だから、それをいち早く察知して不要な接触を避けたり、無難にやり過ごしたりするためには、そういった人のことをよく知っておく必要がある。インターネットは生理的嫌悪感を催す人を観察するのに適している。あなたにも心当たりがあるはずだ。

 

連日のにぎわいを眺めていると、この件で西野亮廣を知ったとか西野亮廣って実はこんな人だったのか!とか、そういう人が多かったのがとても印象的でした。私はと言いますと、それはもう西野公論時代からなが〜くヲチさせていただいておりますから「お前らの脳みそどないなっとんねん!」と、この事実を受け止めることができませんでした。しかし、よくよく考えてみると、あのころからもう10年くらい経っているわけです。つまり、今回の件まで、彼は忘れられた存在だったわけです。絵本を描きだしたのも確かそのころでした。当時、彼がどういった描き方をしていたのか、それについてどう思っていて、どのような発信をしていたのか、もう誰も覚えていないのです。私ですらおぼろげな記憶なのですから、今盛り上がっている人たちの心の中には、10年前の西野亮廣は存在していないと言っていいでしょう。

 

彼が炎上したことで絵本の認知度が上がり、売り上げも上々とのことで、彼の炎上マーケティングは成功したのだ!とする意見が多くありますが、ほんとうにそうなのでしょうか。私が西野亮廣に生理的嫌悪感を抱いたのは、遡っていけばキングコングの漫才まで行き着くのかもしれませんが、西野公論での彼の主張は、間違いなく私の生理的嫌悪感をおおいに刺激してくれました。だからこそ今でも生理的に無理なのです。今回の件で西野亮廣を知った人たちの中にも同じような思いが芽生えた人も多いでしょう。人のうわさも75日と言いますが、西野公論と同様に、彼の存在と言動はまたすぐに忘れられてしまうでしょう。しかし、彼に抱いた生理的嫌悪感が消え去ることはありません。もともと彼がそういう人格だったのならそれも仕方がないのでしょうが、それが計算された宣伝行為だと言ってのけるのは、いささか思慮に欠けるのかなと思います。

 

以前、西野公論はなかなかの頻度で燃えていましたが、結局忘れられてしいまいました。そして、新しい絵本の宣伝のためにまた炎上させたわけですが、逆に言えば彼がとれる方法はこれしかなかったわけです。他に彼の特性を活かしたプロモーションがあったでしょうか。西野亮廣にとって、ファンにとって、その他多数の潜在顧客にとって最適なプロモーションは、ほんとうに炎上商法だったのでしょうか。わたしにはどうしてもそう思えません。個人的には、そもそも彼の作品は有名人だから作品の体を保てている程度の出来で、今回もそうでした。彼の発するポジティブで意識高いコロコロ変わる言動から、高慢で利己的で刹那的で退廃的な性質がひたひたと伝わってきます。

 

西野亮廣に限らず、くまぇり連続放火事件くらいから、炎上させて注目を集めて話題になれば大成功といった手法見る機会がとても多くなってきました。ビジネス的にはそれも手法の1つとしてアリなのかもしれません。しかし、それはあくまでも法人もしくは匿名としての手法ではないかと思います。法人なら名前を変えたり最悪潰してしまえば失った信用はチャラになりますから。個人でやるのもまあアリなんでしょうね。どうせ忘れられてしまうわけですから。でも、そのヤリ逃げ当て逃げ的なやり方が最善手とは言わなくても次善手的な扱いと評価を受けている昨今の風潮にはとても哀しいものがあります。そういう手法でプロモーションした作品に面白いものがちっともないというのも、なにか関連しているのかもしれません。卵が先か鶏が先か的なことなのかもしれないけど。