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栗原さんがいたから頑張れた新入社員時代の私

私のはじめて正社員として就職したのは、東京一治安が悪いと言われている区だった。ビルの二階フロアをパーテーションで五部屋に分けた小さな事務所だった。その会社は仕事柄、女性が多く正社員が少なかった。私が配属された課は十五人くらいいたがほとんどが女性派遣社員で、正社員はセンター長と私だけだった。男性派遣社員は二人いたがすぐに辞めてしまい、センター長は左遷されてきてとてもやる気がなくほとんど課にいなかったため、男性は私一人と言っても過言ではない状況で新入社員生活を送っていた。新入りであることはもちろん、慣れない事務職であったことと、入社前日の夜に酔っ払って雀荘で揉め事を起こして、帰りに集合ポストの側面を思いっきり殴ったら拳の骨が折れてしまったらしく右手がグローブはめたみたいにパンパンになってしまって、一ヶ月ほど手を握ることすらままならない状態だったこともあり、何よりコネ入社だったこともあって、派遣社員の女性たちに毎日嫌味を言われた。ていうかほとんどいじめだった。特にリーダー的なお局さんに、どういうわけかひどく嫌われてしまったようで、「正社員なのにこんなこともできないんですか?」「正社員なんだから自分でやってください」などなど、入社したての新人に対する厳しい仕打ちの中で砂を噛む日々が続いた。それでも毎日健気に仕事に取り組み、意識しておどけたりおもねったりしているうちに仕事も覚えて、半年くらいでみんなと打ち解けることができた。お局グループに認められたときの嬉しさを超える瞬間は今でも数えるほどだ。四面楚歌を打破する一番のコツは、なによりもボス攻略を優先させることだ。周りのザコはほっといていい。この場合はリーダー的お局に認められることが最短で最善の攻略法である。この手の女性は厳しく嫌味が多いが、それは仕事ができることの裏返しでもある。女性は決して、男性の頑張っている姿を無下にすることはない。それが母性なのである。仕事ができる賢い女性なら、それはなおのことだ。そして私が男性だったからこその僥倖なのであった。特に組織における人間関係は、同性間よりも異性間のほうがなにかと上手くいきやすい。これは後になってわかったことだが、男性は嫌な男性上司に当たってしまったらもうなすすべがない。性別的な強みが活きないからだ。それは女性でも同じだと思う。職場での存在を認められた後、女性たちと話をするうちにわかったことは、女性が多い職場での女性同士の関係は、想像を絶するほどドロドロしているということだった。しかも派閥やグループはかなり細かく別れる。そんな女性の多い職場で認められた唯一の男性である私は、そのグループを飛び越えて交流をすることができた。だからいろんな愚痴を聞くことができた。

 

ところで、私のいた課の隣は総務課で、女性二人男性一人で構成されていた。で、そこの女性二人は魅力が満開で、ショムニから抜け出てきたような美人で、背が高く、スタイルも良く、セクシーなだけでなく、仕事もデキて面倒見も良い超イイ女だった。一人は栗色の長い髪を後ろで束ねた明るいブラコン、ギャル出身のお姉ちゃんって感じで、もう一人は黒髪ロング、冷静で賢いスケバン的なお姉さんって感じ。私の課にいる派遣社員の女性たちとほとんど年が変わらないのに全く比較にならないほど大人びたエロさと包容力を持っていた。そしてもう一人は、うだつの上がらなそうな風貌のおっさんで、名前は栗原だった。総務課に舞い降りた二人の女神は、栗原さんをクリちゃんと呼んだ。

「ねえクリちゃあ〜ん❤️」

「ちょっとクリちゃんw!?」

「あっクリちゃんクリちゃん」

毎日毎日、何かにつけてクリちゃんは叱られたり、呆れられたり、頼られたりしていた。そんな異なる強属性のセクシーボイスがパーテーションを隔てて聴こえてくるのがもうたまらなく卑猥で、それは社内に響き渡っていたはずなのに、誰も何も気にしていなさそうなのがとても滑稽であった。小さな会社の片隅のつつがなくもシュールエロリズムな日常は、まぎれもなくケミストリーであった。生命が誕生しそうですらあった。総務課の三人による図らずもわいせつな日常は、私の心の中の砂漠に立ち上った蜃気楼のオアシスのごとく、私を前に前に進ませたのだ。四面楚歌の厳しい環境の中でへこたれずに頑張れた一番の理由は、栗原さんがいたからだった。当の栗原さんや総務課の女性たちは、パーテーションを隔てた向こう側で私のささくれ立った心が救われていたことなど、知る由もなかっただろう。ただそこにいるだけで善。我、善の真髄、見たり。