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ニコルソン四軍調整官のオスプレイ会見に不謹慎ながら感動した

プロサーファーになるために18で単身渡豪した知人から教わった海外で暮らすコツは、けっして謝ってはいけない、ということだった。その例として、車で事故をした時に、カマを掘ったほうがいきり立って車を降りてきて謝罪を要求してきた、という自身の経験談を語ってくれた。どう考えてもこちらが被害者なのだが、謝ってしまうとこちらが非を認めたことになってしまい、裁判で圧倒的に不利になるのだと言う。「だってお前謝ったじゃないか」ということになるのだ。向こうでは、どれだけこちらが悪くても「まず謝る」のは一番やってはいけないことなのだ。下手に謝ってしまうと、取らなくていい責任まで負わされてしまうことになる。林家三平みたいな人は、日本でしか生きていくことができないのだ。

 

それを聞いて頷きながら、生きづらそうだなーとほんのり思っていたのだが、よくよく考えてみると、日本ではいたるところで「すいません」「ごめんなさい」という謝罪の言葉があちこちで乱れ飛んでいる。しかし、その言葉に責任を持っている人がどれくらいいるだろうか。ひたすら低姿勢で謝罪の言葉を並べながらも取るべき責任すら取ってくれなかった、という苦々しい思い出は枚挙にいとまがないのだが、例を挙げるまでもないだろう。「謝ればいいんだろう」となかば開き直る姿勢すら、よくある光景でなのである。様々な状況において、謝罪の言葉に謝罪の意味を持たせない場面を見ることが多々ある。そうした、言葉と意味との隙間に揺蕩う玉虫色の四次元空間に汚れた感情を流す「なあなあ」な様式美は、確かに日本らしさであり、日本の良さでもあるのだが、そんな美しい「なあなあ」は、今や探しても見つけることが困難になった。まあ、それらが私の錯覚で、そんなものは昔からなかったのかもしれない。しかし、重箱の隅を箸でチャンチャン音を立てながら謝罪を要求し、それに対して責任を伴わない謝罪でやり過ごす、という構図が近年の日本のトレンドになっていることは、疑いようのない現実だ。

 

ところで、オスプレイが不時着した件で大騒ぎ中、ニコルソン四軍調整官の会見があった。日本語訳がどうだの、彼の態度に問題があるだの、いろいろと騒がれているが、私は、あの眉間にしわを寄せ、大げさな身振り手振りを交え、声を荒げながら会見をするニコルソン四軍調整官に、みじろぎながらも親近感をともなった既視感を覚えていた。それはすぐに思い出すことができた。ゴルゴ13である。コンビニで売られている廉価版コミックを都合100冊以上は持っており、のべ千回以上はゆうに読み返している私にとって、ニコルソン四軍調整官の高圧的で自信に満ちた振る舞いは、紛れもなくゴルゴ13に登場する、最終的に額を打ち貫かれる軍人そのものなのであった。さすがに「ふんっ!ジャップなどいくら死のうが我々には関係ないっ!」などとは思っていないだろうが。

 

そんな創作の世界にしかいないと思っていた人をこの目で直に見ることができた私は、あの会見に不謹慎にも無垢な喜びを覚えたのだが、それはどうでもいいとして、彼の会見での部下の行動に責任を持つ堂々とした上司の姿にたじろいでしまったことがずっと心にひっかかっていた。彼は毅然とした態度で、部下を守ろうとしていたのだ。彼は悪くないと、仲間を誇りに思うとまで言ってのけたその凛とした姿に、私は圧倒されてしまったのだ。彼は責任者としての職務を全うしていた。正直、羨ましさすら感じた。

 

政治家でも社長でもなんでもいいが、私はこの手の会見をする日本人で「誇りに思う」という言葉を言った人を見たことがない。それがとても異常なことに思えた。部下をしっかり教育し信頼していなければ「仲間を誇りに思う」なんて言えない。そう思われている部下が、しょうもないミスや手抜きをするわけがない。実際どうだったのかはわからないが、そんなことはもうどうでもいい。会見で「仲間を誇りに思う」と堂々と発言できる上司の姿に私は感動してしまったのだから。「誇り」という言葉は、その場しのぎの人間には言うことのできない言葉だ。会見の席で「仲間を誇りに思う」と言えるのは、職務に責任を持ち、仲間を信頼して、日々仕事をしているからに他ならない。その自覚を持っていなければ、絶対にこの言葉は言えないのだ。