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文章の中の「の」の減らし方

くだらない話 備忘録

 

「私の家の兄の部屋の机の一番上の右側の引き出しの中の日記を読んで」

 

この文章の中の「の」を可能な限り減らすとしたらどうします?という疑問について、不必要な言葉を排し、一つの文にまとめてみたい。

 

まず、なぜこのような葛藤が生まれるかなのだが、伝えたいことが明確になっていないからだ。

 

この文章には2つの解釈がある。

 

「(私が)日記を読んで(思ったこと)」という、書き手の述懐なのか。
「(あなたに)日記を読んで(欲しい)」という、読み手への要望なのか。

 

この時点で既にわかりにくいのだが、「読んで」で終わっていることから、これが会話であることが推察される。しかし、この一文だけを抜き出すと、それが非常にわかりにくい。どうしてわかりにくいかというと、「誰が」「誰に」向けた言葉なのかが非常にあやふやだからだ。

 

後述するが、これが実際の会話なら、このような説明くさい言い回しになることはありえない。映像の中の人物の行動をそのまま文章化したような情報量が多いだけのわかりにくい文章になってしまっているのは、おそらくフィクションの中の人物の行動だからだろう。実際の会話でこのような言い回しになることは絶対にありえない。絶対にありえない。

 

これは文章や会話の中の「の」の多さの問題ではなく、(フィクションの)物語中の人物の言動の必然性の話(のが多いw)なのだ。が、それはまた別の話。

 

 

1.「兄の日記を読んで(思ったこと)」を伝えたい場合

 

兄の日記を読んだことを伝えたいのであれば、日記の場所を細かく書くのは冗長になるだけだ。「兄の日記を読んで」の語尾に「思ったこと」と加えるだけで十分だ。

 

2.「兄の日記を読んで(欲しい)」を伝えたい場合

 

この場合、相手に「兄の日記を読んで欲しい」という要望を伝えることが一番の目的なので、場所を明記する必要はない。これが会話なら「わかりました、読んでみます」と返ってきたり、日記の場所がわからない場合は「日記はどこにありますか?」という疑問が返ってくるからだ。わざわざ場所を説明しているということは、現在進行形の会話ということになる。次は、場所を説明する言葉の必然性について考えてみる。

 

2. (1) 誰が誰に言っているのか

 もう一度例文を読んでみよう。

 

「私の家の兄の部屋の机の一番上の右側の引き出しの中の日記を読んで(欲しい)」

 

わたしは思う。

 

これは誰が誰に言っているのか?

 

まず、「兄の部屋の机の引出しの中」にある日記を読んで欲しいと言っているので、その日記が兄のものであることと、これを言っているのが兄ではないことがわかる。

 

また、「私」は「兄」の家族だということもわかる。そして、「私」が日記を読んで欲しいと言っている「聞き手」は、「兄」と「兄の部屋」の存在を知っており、「兄の部屋」にある程度自由に出入りできる立場にある人物、おそらくは家族だということが推察できる。なぜなら、その立場にない人物は、兄の日記が置かれている場所を知ったところでそこにたどり着くことができないからだ。家に入ることすらできないだろう。そんな相手に日記の場所を細かく教える必要はない。まさか「兄の部屋」が誰にでも出入りできる場所だと言うのであればその限りではないが(百歩譲って「私」の家族とかなり親しくしている人物の可能性もある)、「兄の部屋」という言葉にそのような意味合いはない

 

「私」と「兄」と「聞き手」の関係性がわかると、上の文章には、そこにあるべきではない言葉がいくつかあることがわかる。

 

2. (2) 兄の部屋はどこにあるのか?

 

もう一度例文を見てみよう。

 

 「私の家の兄の部屋の机の一番上の右側の引き出しの中の日記を読んで(欲しい)」

 

よくよく見ると、かなり違和感がある。

 

わたしは思う。

 

「兄の部屋」が家以外の場所にあることなどありえるだろうか?

 

「兄の部屋」という言葉には、当然家の中にある」という意味が含まれている。「兄の部屋」が家以外の場所にあることなどありえるだろうか?「私」と「兄」は家族なのだから、「私」が「兄の部屋」と言った時、それは「私の家の」という意味も当然含まれている。例外的にそうでない場合もあるかもしれないが、その場合はそのことを説明していなくてはいけないのだが、そもそも前述したとおり、登場人物たちはかなり親しい関係にあるわけで、それは「兄の部屋」を指す時に、わざわざ「私の家の」という前置きを必要としない関係だ。例えば、あなたが家族や友達に「私の家の私の部屋でさー」などと話すことがないように。

 

よって、「私の家の」という言葉は必要ない。

 

「兄の部屋の机の一番上の右側の引き出しの中の日記を読んで(欲しい)」

 

まだまだもっさりしている。

 

2. (3) 兄の机は何台あるのか?

 

例文が少しスッキリした。

 

「兄の部屋の机の一番上の右側の引き出しの中の日記を読んで(欲しい)」

 

 これが「私」の家の中の話だということは、共通の前提であることがわかった。

 

わたしは思う。

 

家に「自分の机」を数台持っている人はどのくらいいるのだろうか?

ほとんどの人は、「自分のもの」と言える机は一台だけではないだろうか?

 

この疑問については、あなたの家にあなたの机が何台あるかが答えになる。

 

よほどの金持ちで、自分の部屋がいくつもあるような人は、机もたくさん持っているのかもしれない。しかしその場合、「兄の部屋」という表現にはならない。「リビングの」や「別棟の」など、「兄の部屋の場所」を指し示す修飾語がなければ伝わらない。例文に「兄の部屋」としか書かれていない以上、兄の部屋は一つでなければならない。あなたやわたしの例を考慮すると、「兄の机」も一つしかないと考えるのが妥当だ。そしてそのたった一つの机は「兄の部屋」にあると考えるのが常識的だ。もしそうでないなら「兄の部屋」という言葉が使われることはない。「リビングにある兄の机」や「納戸にある兄の机」という表現になる。

 

一般的に、兄の机が兄の部屋以外にあることは考えにくい。また、前述したように登場人物たちは、「兄の机の場所」など聞かずともわかるほど近しい関係なのである。

よって、「(兄)の部屋」という言葉も必要ない。

 

 「兄の机の一番上の右側の引き出しの中の日記を読んで(欲しい)」

 

2. (4) 机のどこにあるのか?

 

「兄の机の一番上の右側の引き出しの中の日記を読んで(欲しい)」

だいぶスッキリした。もう少しだ。

 

日記は机の引き出しの中にあるようだ。

関係ないが、引き出しは抽斗と書かれていることが多い。

 

わたしは思う。

 

「右上の引き出し」じゃだめなの?

 

「一番上の右側の」、、、いったい、いくつの引き出しを搭載している机なのかわからないが、わざと回りくどく書いているようにしか思えない。よほどトリッキーな机でない限り、「右上の」で十分に伝わるはすだ。

 

もう一つ、「引き出し」と言う言葉は、引き出しの「中」を示唆している。引き出しの裏や断面にあるのならそう説明しなくてはいけないが、特に説明がない場合、引き出しの中になにかがあるのは言うまでもない。ゆえに「中の」も必要ない。

 

 よって

 

「兄の机の右上の引き出しにある日記を読んで(欲しい)」

 

正直、「兄の机」というヒントがあれば、よほどの数の引き出しがないかぎり、引き出しの場所まで細かく言わなくても日記にたどり着けるだろう。

 

結論

 

「兄の机の引き出しにある日記を読んで(欲しい)」

 

これで十分やね。

 

ところで、

この文章で一番問題なのは、なんで「私」が兄の日記の場所を知っているのか?ということだ。

人の部屋に勝手に入って机を物色し、日記を盗み読み、さらに第三者に日記を読むことを勧めているわけだから、「私」は相当クズだと思われるのだが、それは置いとく。