猫が死んでしまった

死を看取ろうとする心理の奥底にあるほんの少しの好奇心が、その死を汚しているのではないか。そう思うのは、これまでに誰の死の瞬間にも立ちあっていないからなのかもしれない。

人が死ぬ時の表現として、ベッドのまわりに集まった人たちに惜しまれながら息を引き取るという描写をよく見るが、私の経験では、そのような死に方をした人はひとりもいない。事故死や事件死は除くとして(そういう死に方をした親類知人はいないが)、たいていは、みなが寝静まった深夜に亡くなっている。ひいばあちゃんの最期の時がちょうどそんな感じだったが、親族がひととおり挨拶を済ませたその日の深夜に一人、そっと息を引き取った。私も死ぬ時はひとりの時を選びたい。もしくはポックリ逝きたい。死にゆく様をあまり人に見られたくない。それは恥ずかしさのようなものかもしれないし、気遣いのようなものなのかもしれない。

老猫なので、もう長くはないだろうと思っていたが、きのう急激に体調が悪化する。

ふらふらさまよう腰は震えていて、壁の隅に顔をうずめてはじっと座っている。よだれも小便も垂れ流しだ。猫は感情を顔に出すことはないが、水の入った器にしっぽを浸けたままの、軽い腐臭を放つその姿を見ていると、とても苦しいのだろうと思う。

猫は死に目を誰にも見せないと何処かで聞いたことがある。事故死以外で死にかけている猫はこれまでに何度か見ているが、どの猫も壁ぎわに顔をうずめるようにしてじっと動かない。そして、私が寝ている時や外に出た時に死んでしまうのだ。

そっとしておいてやろうと席を外すが、心配になってすぐに見に行ってしまう。

すると、そこからいなくなっている。どこにも見当たらない。

部屋中をくまなく探すと、物の隙間にうずまっていたり、玄関の壁の隅に顔をうずめていたりするのを見つける。

何度目かには、物が倒れるような大きな音がして、探して見るとタンスの奥の隙間に宙ぶらりんの状態で挟まっていた。顔が引っ張られてものすごい形相になっていて、これはさすがに助けたが、もう階段を昇る脚力すらないのにどうやってそこに挟まったのかわからない。

朝になると、猫は死んでいた。

知っている人や世話をした動物が亡くなった時、体に空いた小さな穴からなにかが漏れ出ているような、力が抜けるような喪失感と安堵感が混ざったような、言葉にしづらい感覚がにじむ。悲しさや寂しさがないわけではないが、そういうのとは違う。今生の苦しみから解放されたのなら、それは悲しんだり寂しがったりするようなことではないとも思う。

 

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