重度の障害を持つ人はどういう人か

一口に障害といっても、程度はさまざまだ。障害は、第一級から第十四級までの等級が定められている。それによって障害者年金の額や、受けられる支援の幅が決まる。国やそれに準ずる機関によって等級が認定されると、障害者手帳が交付される。この手帳を持っている人が、障害者である。

障害等級表|厚生労働省

細かい等級に分けられてはいるが、ざっくり分類すると、軽度障害と重度障害に分けられる。軽度障害は、日常生活にそれほど支障を及ぼさない。一見すると健常者と変わらない生活をしているように見えるほどだ。最低賃金に限りなく近いとはいえ、普通に毎日働いている。そこに障害者年金を加えると、だいたい一般企業の初任給程度の収入になる。彼女がいる人もいるし、一人暮らしをしている人もいる。

私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です。

これは、相模原障害者施設殺傷事件の容疑者植松聖が、衆議員議長大島理森氏に渡そうとしていた手紙の中の一文だ。植松容疑者の思想は、高齢者問題にも通じていると思うがそれは置いといて、ここで植松容疑者は、「重複障害者」という言葉を使っている。厳密には違うのだが、ざっくり言うと「重度の障害者」のことだ。

 

ここ数年、障害者が起こした犯罪や、障害者への虐待が大きな話題になることがあった。そして今回の事件が起こったわけだが、これらのニュースを見ている人の中で「重度の障害者」がどのような人なのか、どういう生活をしているのか、知っている人はあまりいないだろう。

 

植松容疑者がやったことは、決して許されるものではないが、彼がどうして狂気とも言える思想に陥ってしまったのかを考える上でも、重度の障害者とはどういう人なのか、私の経験からできる限り詳細に、噓偽り、綺麗事無く書いてみたい。以下は客観的に書いたつもりだ。悪意も善意もない。

 

主に知的障害者についての話であることも付記しておく。

 

意思の疎通について

 

非常に困難である。重度の障害は、言葉が喋れない、言葉が理解できない、体がうまく動かせないなどの障害が強い。これらの障害が併発している場合が多いので、個人個人でその対応の方法が違うのが一般的だ。さらにその時の精神状態によっても対応を変えなければならない。何よりも必要と言葉の概念、心の概念、時間の概念、規則の概念、責任の概念など、これらは社会生活を送る上で必要な素養なのだが、これらの学習が非常に困難であることに加えて、上記のような身体的な不自由を抱えている人と、どのように意思の疎通をしているのか、想像することができるだろうか。これらを踏まえた上で、最低限の意思疎通をするためには、なによりも支援者と障害者の間での信頼関係が大切になる。信頼関係が無いと、支援のための理論や過去の事例などはすべて机上の空論となる。このところ、人工知能の発展が著しいが、それがいかに優れたものであっても、補助ではなく人間の代役として障害者を支援することはできないだろう。

 

こだわりについて

 

障害者はあまねく、強いこだわりを持っていると考えてよい。いや、健常者だって、みんなこだわりを持っている。例えば、年下がタメ口で接してきたら(年下のくせに生意気な)と思うだろう。ドアを開けっ放しにする人がいたら、苛立ちを覚えるだろう。そんなの当たり前だと思う人もいるかもしれないが、こだわりとはこういうことだ。タメ口は会話の内容とはまったく関係がないし、開けっ放しのドアも自分で閉めれば機能的に何も問題はない。しかしそれでは気が済まないと思う、それがこだわりだ。障害者の場合は、それがとても強い。例えば、悪気のない何気ない一言で過去のトラウマが蘇り発狂してしまう。自分のルーティンがほんのすこし乱れただけで、手がつけられなくなることもある。そんなことはよくあることだ。

 

生活について

 重度の障害者は、日常生活もままならない場面が多い。服や靴の脱ぎ着から、歯磨きから、食事から、排泄から、さまざまな場面で介助が必要になる。よだれを制御することもままならないので、支援者の服や体によだれが垂れることは当たり前。トイレのときは、無理やり排泄をさせるわけにはいかないから、優しい言葉で促しながらそのときを待つ。終わった後は、尻の穴まできれいに拭いてあげる。失敗(おもらし)してしまうことも少なくない。排泄はトイレでしなければならない、という決まりごとは、あくまでも人間が勝手に作ったルールだ。それが理解できなければ、自分のしたいときにしたいところでするのも仕方がない。これは誰にでも当てはまることなのだ。いわゆる健常者は、物心つかないうちに当たり前に躾られたからそれを知っているが、そのようなことすらもままならないのである。また、力の手加減がうまくいかない人もいる。障害者とはいえ、体は大人なので、かなりの力を持っている人もいる。口に物を入れるのが気持ち悪いらしく、歯磨きができない人がいて、定期的に歯科医にきてもらっていたのだが、そのときに大人に男数人で腕と足を力づくで押さえ込んで、泣き喚き暴れる中、歯科医に無理やり歯磨きをさせた経験は忘れられない。その際は、思い切り噛むかもしれないので、口に何かを噛ませていた。それくらい危険なこともある。もちろん保護者の了承を得た上でのことだ。

 

ズルさについて

 

重度の障害とはいえ、まったく意思がないわけでも知性がないわけでもない。つまり、ズルさも持っている。意外といえば失礼かもしれないが、意思の疎通が困難な人でも、関わる人の力関係や上下関係などはしっかり見ていて、駆け引きをしたり、嘘をついたりするのだ。施設の利用者間でも好き嫌いがあるようで、上記のようにこだわりが強いものだから、うまくやることができない。同じ場所にいると、隠れて暴力を振るって知らんぷりするようなこともある。

 

障害者の就労について

日本国民には、すべからく労働の義務がある。障害者なんだから無理に働かせなくても、、、という意見は、差別心の表れだ。障害者もれっきとした日本国民なのだから、義務を果たさなければならない。それだけではない。労働は、障害者と社会をつなぐ架け橋でもある。どんな形であれ、仕事をして対価をいただくことは、人と社会との関わりであることに他ならない。その賃金は、自分と社会との関係そのものであり、存在の証明だ。仕事をすることは、社会の一員であることの誇りであり、健常者たちへの声無き訴えでもある。

 

、、、とはいえ、このような崇高な理念は、いまやお題目にすらなっていないのが現状だ。なにより生産性がなさすぎる。スタッフがコンビニでバイトをして、その金を寄付したほうがよっぽどいい支援ができるのではないかと思えるほどに、生産性がない。例えば、支援者が数人を手伝い「よくできたねー」などと声をかけながら、一つ一円の内職を一日かけて数百個作る。仕事なので納期やノルマがある。障害者のペースに合わせていてはとても間に合わない。結果、ノルマと納期を守るために、支援者たちがその作業を肩代わりすることになる。もちろん、その間も障害者たちの面倒を見ながらになる。それで障害者が得られるのは、一ヶ月数千円である。国と家族と有志からの援助とがあって、ようやく支援者と障害者たちに少ない給料を払うことができる。ほとんどがそのような施設なのである。これは国の支援制度の問題なのかもしれないし、経営手腕の問題なのかもしれない。できることに制限があるのは仕方がないにせよ、付加価値をつけることはできるはずだ。しかしそれがうまくいっていないのが現状だ。

 

ご活躍されている有名な起業家や実績のある経営者の方は、ぜひ障害者施設の継続的な黒字化に挑戦してほしい。そしてそれをメディアで大きく取り上げて、そのような挑戦がカッコイイものとして支持されるような風潮を作ってほしい。数年前に、海外でアイスバケツチャレンジというものがあった。これは障害を持つ人への金銭的、啓蒙的な側面を持つ活動で、日本でも芸能人や有名人がチャレンジしているのが話題になったが、ネットでは否定的な見解が表に出てくることが多かったし、話題は一夏も持たなかった。今回の事件をきっかけに、障害者と健常者の間に横たわる溝を埋めるような政策を急進的に進めてほしいのだが、経済的な問題も、潜在的な差別心の問題も一筋縄ではいかない問題なので、なんともむずがゆい。正直この事件の話題も、日本におけるアイスバケツチャレンジのように、一過性で終わってしまうような気がしてならない。