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相模原障害者施設大量殺傷事件に思うこと

時事 やりきれない話

とんでもない事件が起こってしまった。

障害者が利用する施設は、その運営に障害者の家族が関わっていることがとても多い。事件が起こった津久井やまゆり園も同様だ。なぜなら、障害者は、一人では生きてはいけないからだ。人生において誰の身にも平等に降りかかる社会生活の問題、就労の問題、心身の問題など、健常者でさえままならぬ困難なのに、障害者が一人で乗り越えていける道理はない。どうしても誰かの助けが必要になる。家族が率先して、その環境を整えようとするのは、必然と言える。そして、障害者とその家族が歩む道が健常者のそれよりも苦労や負担が多いことは言うまでもないだろう。家族は、その一生を引き受ける覚悟を強いられるのだから。そこで働く人たちにも(それと同じとまではいかないまでも)人の一生を引き受ける覚悟が必要になるし、求められる。もちろんそれは当然のことなのだが、就労の対価をいただく立場である以上、ドライな面も持っていなければ仕事はできない。感情移入が過ぎると仕事にならない。全ての家族や保護者が、慈しむ心を持っているわけではない。葛藤している人の方が多いのではないかとすら思う。悲しみに浸ったり、なにかに怒りを感じている間にも、やることは波と押し寄せてくるので、ある程度割り切ってバランス感覚を保っていないと暗黒面に堕ちてしまう。おそらく今回の犯人は、過度に感情移入してしまったのだろう。そして刹那的な独りよがりの闇に堕ちてしまったのだ。

 

1年ほど前に大きなニュースになった障害者への虐待の事例は、障害者を人と思っていないようなところがあった。

山口新聞/ニュース

こちらも同様に鬼の所業なのだが、今回の事件とは動機に至るまでの道のりが根本的に違っている。事件までの行動を見るに、今回の事件の犯人は、自分が正しいことをしたと思っているふしがある。このところ、なにかにつけて正しいとか正義とか正論とか正解とか言う人をみかけることが多くなった。その判断自体に妥当性を感じないものも多いがそれは置いといて、個人的にはそんな潔癖な人たちにも、本件の犯人と同じような危険性を感じる。要するに、融通が利かないのだ。正論や正解だけで回っている社会など、そんなものがかつてあった試しはない。

 

犯人は障害者なんていなくなればいいと考えていたようだが、いったい何を持って障害者とするのか。これをどう定義し、誰がどのように判定するのだろうか。彼の残した言葉を見るに、そのようなことを考えていたとは思えない。また、とても大事なことだが、障害と言っても、それが先天的なものとは限らない。むしろ、長い人生の中で後天的に障害を負うケースのほうが多い。障害者施設で働いていたのなら、少なからずそういうケースに触れたこともあるはずだ。ある日突然倒れてしまい、なんらかの障害を負ってしまったら、それだけで死ななければならない。こんな社会が成り立つだろうか。誰がそんな社会で暮らしたいと思うだろうか。そんな世界が平和だというのだから、もう話にならない。

 

彼の精神が異常だったのかどうかはまだ明らかになっていないし、これから大きな争点になるだろう。大麻の反応が出たのは、アサシンのごとく、事に及ぶにあたっての動揺を軽減するために用いたのかもしれないし、事後の焦りを抑えるためだったのかもしれない。計画的な行動と解釈することもできる。少なくとも、大麻が彼の精神を悪鬼のごとく変容せしめたと考えるのは、あまりにも短絡的な見解なのだが、世論がそのように誘導される恐れは大いにある。今の時点ですでに、そのような意見はよく見られる。何が彼を狂わせたのか、という問題はあるにせよ、根本的な問題は、まったく別のところに深く根を張っているように思える。