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日記的

結局、なんだかんだで100冊くらい小説を買い込んできたわけで、ようやく4冊読み終わったところなんだけど、一冊読むごとに思う。俺はこんなところでなにを書いているのかと。俺はなんのためにこんなところに中途半端なことを真面目な顔をして書き散らしているのかと。少なくとも俺にわかっていることは、それをわからないようにしようとしているということだ。わかっているくせに、わからないようにごまかしている。求めているものを、求めないように意識している。自意識の上にいろんなものを被せて被せて見えないようにしている。物心ついたころからそんなふうだったので、もはやほんとうにそうなのかすらわからない。もし、これまでの駄文愚文をオッカムの剃刀でスッパスパ削ったらなにが残るのか。考えただけでも恐ろしい。そんなことならはじめから金儲けのためにブログやってまーすとか女とヤりたいからブログでつながりつくってまーすとか堂々と言えたほうがどれだけ健やかだろうか。と思ったが、そういうやつらが雁首そろえていつもいつも俺の神経を逆なでる性質をあらわにしているのを見るにつけ、ああやっぱり俺には無理なんだなと思い知る。ああいうのは俺の中では唾棄すべきクソつまんない人間のありかただから。そんなことをするくらいなら死んだほうがマシだと思うが、実際にはゆるやかに餓死していくのには耐えられそうにないから、強盗に入って捕まって臭い飯喰って生きながらえるんだろうけど、そんなもんは死んでるに等しいわけだから、死んだほうがマシなんだろう。そんなこんなで今好き好き大好き超愛してるを読み終わったんだけど、これの一冊前に婚活島戦記ってのを読んで、そのヒロインが二毛作甘柿という名前だったのだが、好き好きのヒロインが柿緒という名前で、そのことが軽くひっかかったまんまになって、そんなのはただの偶然なんだけど、その前に読んだ米澤穂信儚い羊たちの祝宴谷崎潤一郎が出てきて、そこでもあれ?この名前どこかで見たなと思ったらその一冊前に読もうとしてやめた森博嗣イナイ×イナイのプロローグ前の最初の最初も1ページに谷崎潤一郎の小説の一部が意味ありげに引用されていた記憶がひっかかってしまったこともあったから、何かの因縁を感じたりもしたのだけど、それもやっぱりただの偶然で、固有名詞とはそういうものなのだと思いながらも、そういうのがいちいちひっかかってしまう自分もいるわけで、だからと言って運命を感じるようなことはないのだけど、この4作の著者のことはいい意味で記憶に残ったし、次に知らない本棚に出会ったときは、谷崎潤一郎の名前を探すだろう。それは良いことだと思う。そしてその合間に読んだ法月綸太郎にはそんな偶然はなかったけれど、十分に面白かった。

 

 

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