時代性を排した表現

近くにある唯一の大手中古チェーン店が在庫一掃セールをやっており、本が全品一冊数十円で売っていた。カードゲームコーナーで盛り上がる大学生たちを尻目に30冊ほど購入。もう本を取り扱わないのだとすると、近くに古本屋はなくなってしまう。非常にさみしい。

 

手塚治虫「MW」読了。手塚治虫の漫画は、火の鳥しかり、ブラックジャックしかり、きりひと賛歌しかり、いろいろと読んだ記憶があるのだが、気がつくと手元に手塚作品は一冊もない。MWも読んだ記憶があったのだが、この際なので購入。どの作品も決してつまらなくはないのだが、面白いと思っているのか、面白いと思わないといけないと思っているのか、いつもわからなくなる。

 

漫画家の岡本倫が携帯電話を描かない理由が話題に 「10年後の携帯電話が想像できない」 - ねとらぼ

 

エルフェンリートを描く前の事。あだち充先生のみゆきを読んでいて、30年以上前の作品なのに全く色あせずに面白かったのですが、五百円札が出た時にこれは昭和の漫画なんだと現実に引き戻されました。なので自分が漫画を描く時は、10年後に読まれても時代がわからないようにしようと思いました。

 

少し前にこんな記事がにわかに話題になった。手塚治虫の漫画には、その時代を象徴するような表現やアイテムがとても多く出てくる。率直に言って、古臭さを感じたし、色あせて見えた。この漫画家の方が言うように、それが面白さを毀損しているとは思わないが、作品に没頭できなかったことも事実だ。それは、手塚治虫という漫画家自身の歴史的評価に起因するところもあるのだろう。作品よりも名前と逸話の方が広く知られてしまっているから、かけなくていいメガネをかけさせられているような。ユーモアにしてもなんにしても、一コマ一コマに有無を言わせぬ圧力のようなものを感じてしまうのだ。面白くない、などとは決して言ってはいけない圧力。某お笑い芸人や某アイドルに漂うあの感じ。ともあれ、手塚治の名もその作品も、後世に受け継がれていくだろう。また、時代的な表現を極力排した作品のばかりになってしまうのは、とても味気ないように思う。現代に作られるものが現代の価値観から脱することは可能なのかとも思う。現代の価値観でもって描かれる時代性を極力排した表現に、未来の読者はむしろ疑問を抱くのではないだろうか。当時の時代がどうだったかを知って初めて理解されるような、まわりくどい作品になってしまう恐れも大いにある。例えば、山田風太郎の忍法ものは、いまになっても全く色あせることはなく、新鮮ですらある。戦国時代や江戸時代、中世や古代ギリシアなどなど、過去を描いたものは、いまもなお描かれ続け、読まれ続ける。そこに時代性を排しようという意識はあまりないだろう。むしろ時代性を描くことに注力している。

 

 

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