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「主張がない文章」などありえない

公式 - 意味をあたえる

 

わたしは基本的に言及をしないのだが、今回の件について言及したのは「ついカッとなって」しまったからだ。犯罪者の動機にはよくあることだ。酒の席でつい熱くなってしまうようなものだ。ご容赦いただきたい次第です。そのときの激情を引きずることはないが、その展開を引きずることはある。言及することはもちろん、言及に対しての公式な見解をいただくのも稀有なことなので、せっかくなのでもう少し絡んでみたい。

 

二日ほどまえの記事で、「この記事における言いたいことは、これである」という旨の言及をいただき、私としては特に言いたいことがあって日々文字を並べているわけではないから、いっしゅん
「言いたいことは特にないです」
と指摘しようと思ったが、言いたいことのない文章なんてあるのか? そもそも自分の介在しない主張というものが、たとい100パーセントの自分の手から生み出されたものだとしてもあるのではないかと思ったのでやめた。そもそも「これが言いたいことだ」とわざわざ指摘してくださったのに、「ありません」とむげに突き放すのもどうかと思ったので、「正解である」と、思い直した。あくまで私の頭の中の話である。じっさいその文は最初は違うことを書いていて、書ききってから直した箇所だったので、私なりの感情の●●があったと思われる。

 

これまでの氏の文章でもそうだったが、なにも主張がないといっているわりには、断言や憶測を前提とすることが多い。「自分はこうである」という表現も多い。そもそも、主張のない文章などはありえない。主張とは自分の考えを相手に強要することではない。例えば「空が青い」と書くだけでも、それは主張なのだ。その空が誰にとっても青いわけではないのだから。例えばその一日について起こったことを書いただけでも、なにを取り上げ、なにを取り上げなかったか、という選択がある。その取捨選択は主張といって差し支えない。控えめに見ても「わたしには主張がありません」というのは、気をてらいすぎているというか、変人を気取っているのではないかと思う。

 

この記事では「この記事における言いたいことは、これである」とわたしが断定したように書いているが、わたしはだろうと書いた。その根拠ともに推測を書いたのであり、決して断定などしていない。大げさに言えば、これはデマだ。嘘だ。どうして引用してくれなかったのだろう。というか、普通に考えて引用しなければだめだろう。引用をすればこのようなミスリードは起こらないのだから。これでは、ミスリードが目的だと思われても仕方がない。つまり、恣意的なのだ。

 

また、温情で「正解である」とされたことも、しゃくにさわった。わたしは回答したのではない。違うなら違うと言ってくれればそれでよかったし、わからないならわからないと言えばいいではないか。それが正解でないのに、正解を提示できないのに「正解である」などと高みから言われる筋合いはない。

 

それは「日常とは今」的な文句であった。
私としては「そんなん、あたり前やんけ!」という読者の突っ込みを想定しての文であった。でも○年前の日常、なんて言い回しもあるから、私が思うほどあたり前でもないかもしれない。しかし、なんの修飾語もつけずに日常と言ったら、現在のことを指すのではないか。
一方私は記事を最初から読んだ人は、そんな突っ込みをしないだろうと予想していた。

 

わたしがあまり言及したくない理由のひとつに、その人の人となりがわからないから、ということがある。それが冗談なのかマジなのかわからないと、振り上げた拳のおろしどころがわからなくなってしまうからだ。あくまでも「冗談なのかマジなのか」と言うのは簡単な表現で、その文章や主張の意味や機微は、字面だけに現れるものではない。なにが言いたいのかわからない文章だからこそ、それをできる限り正確に捉えたいという思いがあった。そして、氏の文章をこれまで読んできて、この人は非常にわかりにくい冗談を言う人だ、というのがわたしの認識だった。「これってボケてんのかな?」という思いがあったことは事実だ。しかし、カッとなってしまったものは仕方ない。あれもこれもツッコミということで重ね重ねご容赦いただきたい次第だ。

 

この記事でも日常について書いているが、わたしの主張は全く一顧だにされていない。ここまでかたくななものが主張でなくてなんなのか。もしかしたら、これは笑うところなのか。また、読者がこんなツッコミをしないと思っていたということは、そう思ってもらいたい、という主張がこれまでの文章にあったからに他ならない。ちなみにわたしは読者である。そしてこういった書き方は、ちょっと卑怯だな、とも思う。

 

私は極めて狭い視野の理屈を積み重ねていって、そこから書く前には思いもしなかったことを導き出すのが好きなのである。恣意的な理屈をなるたけ避けていくと、ほんとうにこれでいいんだろうか、みたいな結論にたどり着くことがある。それがすごい、すごくない、や価値の有無は関係なく、私としてはそこまで思ってはいないが、ここまで書いてみると、こういう考えにならざるをえない、というところに来て始めて「書いた」という満足を得ることができるのである。その対局がポジショントークと呼ばれるものなのだろう。

わたしの文章を引用せずに書き変えているところや、「主張がない」というわりに主張がましいところなど、ここまでで既に、氏の文章が「恣意的な理屈」をなるたけ避けているとは考えがたい。そうしているという自覚はあるのかもしれない。誰も言わないのならわたしが言おう。むしろ恣意的な理屈、多いですよ。これも冗談だと言うのなら仕方がないが、それでは書くという行為があまりにも虚しい。また、極めて視野の狭い理屈と恣意的な理屈は同一線状にありはしないか、とも思う。

 

板尾創路

「矛盾があってもいいんですよ」
と言っていたから、そういうのも今日の記事に影響した。矛盾を許さないというのは、一種の思考停止である。

 

矛盾があってはダメだとは思わないし、今回もそうだが、いったい誰が矛盾を許していないのかがわからないのだが、「矛盾があってもいいんだ」と開き直る行為こそ、思考停止ではなかろうか。板尾創路が言ったから、というのも(これはまた別の意味があるのかもしれないがあえて無視する)思考停止に非常に近い。根拠としては幼すぎやしないだろうか。というか典型的な思考停止のパターンではないか。これも冗談だと捉えられないわけではないが、例によって虚しすぎる。「板尾創路が言ったから」ということで納得をしていいのは、板尾創路をよく知る人だけだ。「よく知る」ということは、テレビや雑誌や新聞越しに(少しだけ)見たことがある板尾創路だけではない面を知っているということだ。もちろんそこへ自分の経験や知識を組み込んで、複眼的な視野から「矛盾があっても良い」と考えるのはぜんぜん構わないのだが、唐突な「板尾創路」という記号だけでは錯覚を導くだけで、なんの説明にもならない。そこにこそ、保坂某や小島某の言葉をもってくるべきだろう。とはいえ「矛盾があってもいい」という考えは「矛盾を許さない」と考える人(そんな人がどこにいるのか見当もつかないが)を否定するために用いるものではないとわたしは思う。