カエルプニプニ

隣の家の小さな田んぼに水が張られ、カエルが集まってくるようになった。

カエルは夜に鳴く。今まさにゲコゲコ言ってる。

 

カエルが鳴くのは求愛とか、縄張りとか、そんなものを宣言しているらしいが、おまえらの縄張り狭すぎるだろ、そんなにヤれないのか、ヤリたりないのか、と。それにしてもあの鳴き声、大音量にしては不快感はそうでもない。気がついたら大合唱の中で眠ってしまっているのだから不思議だ。ところでわたしはカエルのプニプニした手触りが好きで、見つけるといつも捕まえてプニプニしていたものだ。いまでも見つけたらプニプニする。カエルプニプニは、猫の肉球なんかより数段高みの触感だ。みずみずしくて、粘膜の粘り気がほどよい。造形もかわいい。黒目がかわいい。まばたきもかわいい。指の先が丸く膨らんでいるのもかわいい。逃げようとピョンピョン跳ねる姿までかわいい。それなのに、カエルプニプニの気持ちよさの知られてなさときたら、語られなさときたら。

 

「猫の肉球っていいよね」なんて言ったら、まあ共感してくれる人は多いだろう。なんならそれがきっかけで恋が芽生えるかもしれない。しかし「ぼかぁカエルをプニプニするあの触感が好きなんだ」なんて言ったらどうだろう。どんな反応が返ってくるだろう。どうしてと言われると困るが、カエルの触感が好きだなんて、おおっぴらに言うことではないと思う。例えばわたしはテープの粘着力が好きで、粘着面を表にしてくるっと丸めて指の腹で遊んだりするのだが、それも人に言ったことはない。緩衝材のプチプチを潰すのが好きだ、ということは言えても、ガムテープ(布)の粘着面が好きだなんて、とてもじゃないが言えない。「最近のお気に入りは値札のシールです」なんて人には言えない。これが世間体というやつなんだろう。

 

誰にでもそういう人には言えない好みというものがあるはずで、あくまでもその「好き」は個人的なものなので、というより「好き」はすべからく個人的な事柄なので、他人に共感されなかったからといってどうということはない。では、なぜプチプチや猫の肉球が世間体を得たのか。ということになる。たぶんそこまで好きじゃないんだろうな、と思う。誰にでもある日常の隅に潜むほんのちょっとの快感だから、共感を得ることができるのだろうし、むしろ共感を得ることの方が快感なのではないか。つまりそこにある「好き」は共感を得ることにあり、共感を得るために猫やプチプチが引っ張り出されてきたのではないだろうか。わたしが世間体を獲得した「好き」に気味の悪さを感じることがあるのは、本当に「それ」が「好き」なのかと思ってしまうからなのだ。そんなことよりも、誰にも言えない密やかな「好き」について知りたいのだ。

 

 

 

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