読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

小銭、募金

くだらない話

 

子供の頃、日本中の人たちから1円もらったら1億円になるなあ、などと皮算用をしていた。しかし考えるだけで、誰にも1円を乞うことはなかった。会う人一人一人に1円を乞うことの面倒くささは想像するだけでも嫌になった。せめて10円なら、100円ならとどんどん金額が多くなった。自分なら払わないな、と思った。やったことといえば、せいぜい下を向いて歩くくらいだった。毎日、小さな小さなショッピングモールの一角のゲームコーナーに通って、ゲーム機の下の隙間を探っていた頃もあった。毎日必ず数十円は拾えた。数百円拾えたこともしばしばだった。ある日管理員のおじいさんに諌められ、「もうこういうことはしちゃだめだよ」と50円をくれたが、その金額の安さに呆れたものだ。学年が上がると、自然にしなくなった。誰かに見られるのが恥ずかしいと思うようになったからだ。そう思うようになったのは、叱られた、怒られた経験が積み重なったことによるものだろう。これまでに出会った人、言葉を交わした人×100円を貯めていたら、いったいいくらになっていただろう。わたしが出会った人は、数千人だろうか、数万人だろうか。我がことながらまったくあたりがつけられない。もし子供がいたなら、こういうことをやらせてみたいものだ。

 

街角に突っ立って大声で募金をするひとたちをみかけることがめっきり減った。その募金箱の中のお金がなんのために使われるのかはともかく、そこで集められる金額がある日突然まったく必要なくなる、ということはありえない。集まるお金が減少傾向にあるのかもしれない。おそらく他の方法に切り替えているのだろう。そして、その減少と反比例して、コンビニなどのレジに小さな募金箱が置かれるようになったのだろう。レジに置いてある、というのがなかなかニクいもので、数円のお釣りを財布に入れる面倒くささから、ポイッと募金箱に入れて帰ることがある。一番感心したのは、あの小さな募金箱を半透明にしたことだ。中にどれくらい募金がされているのかが見えるということは、こちら側にとっては想像の余地が広がるということだ。わたしが見かけたレジに置いてある半透明の募金箱の募金量には、一定の傾向があった。募金のかさが、箱の容量の三分の一未満であることだ。また、それは非常に効果的な量だという結論に至った。

 

仮に、募金がもう溢れださんばかりに貯まっていたとしたら、じゃあ俺はいいや。となるだろう。逆に、箱の中にほとんど、もしくはまったく募金がされてなかったとしたら、じゃあ俺もいいや、となるだろう。三分の一未満という少なさが、マイノリティでありたい願望をかきたてる。全然入っていないとむしろ怪しく感じてしまうが、あまり芳しくない募金の集まり具合が醸し出す悲壮感は、母性、あるいは父性を刺激する。「力になれた」という自己満足を感じやすい。よって、じゃあ俺も入れようかな、となるのだ。レジで受け取った数円の小銭に限って言えば、どこへの募金なのか、それがなんに使われるのか、ということはあまり気にならない。レジの前でスマホを取り出して募金先について調べる人なんていないだろう。それらしいことが書いてあれば良いのである。笑ったのは、エスパー伊東が入れそうなほどの大きな透明のボックスを募金箱にして景品受け取りカウンターにドカッと置いていたパチンコ屋だ。中には、スタッフが入れたものであろう千円札が2枚ほどと小銭が少々。あんなにまぬけな募金箱は他にないだろう。パチンコ屋で財布をとり出すのは台に座った時以外にはなく、また取り出すのも紙幣なのだから、景品を受け取る少しの間にわざわざ財布を取り出して「さて募金をしようかね」などと思う酔狂な人はいるわけがないのだ。まあ置きたくて置いたものではないのだろう。とにかく、わたしが募金箱を設置するようなことがあれば、募金箱の中身が見える小さな透明の箱を使い、中の小銭の量は調節するだろう。最適の量があるはずだ。わたしが考えるくらいだから、他でもやっているところはあるはずだ。

 

街角で行われる募金のかわりというわけではないが、ネットを通じて行うクラウドファウンディングなる手法が広まってきた。この間、経営が苦しい地方の小さな酒造メーカーがクラウドファウンディングを用いて資金を募っていたのをテレビで特集していた。募った資金は100万ほどで、ほどなくして集まった。酒造メーカーの代表は、この結果にとても満足していた。人によってはたったの100万と思うかもしれないが、いかに経営が困難なのかということがうかがえる。出資者には造った酒が送られたとのこと。出資者は東京都などの都会人が多く、代表はそのことも嬉しそうに話していた。新たな販路という希望が見えたのだろう。

 

 

広告を非表示にする