偶然

朝、くるまのラジオをつけたら、
「マダニは木の上から、、、」
などと言う声が飛んできて、少し前にユクスキュルの本のことを書いたので、もしやと思いながら聴いていたら、まさにその本の紹介だった。ラジオは、のっけからわたしの記憶違いを指摘した。木の上のマダニは、「酪酸」を感覚し、それをめがけて落下するとのことだった。さらに、木の上のマダニは、酪酸を感覚すること以外、なんの感覚も無いそうで、目当ての感覚が訪れるまで、何十年も、木の上でいるそうである。酪酸を感覚したからといって、それが動物である保証はなく、落ちた先で何も得られない、ということもある。そして、うまいぐあいに生き血にありついたマダニが次にすることは、子を産み、死ぬことだ。つまり、どちらにしても、先は長く無いわけである。

この話をしたラジオの人は、なんとつまらない人生だ、と言ったが、人間も似たようなものかもしれないなあ。人間は、虫と比べて認識できる世界が広いわけで、だからこそ虫に対してそう思うのであって、当の虫にとっては、つまらないとか思うことはないし、人間よりも高次元の存在にとっては、人間は虫のような認識になるのだろう。といっても、その意見を否定するわけでもなければ、その人をdisるわけでもない。まあラジオ番組だから、話の流れ的にはそう言ったほうがよろしいわけで、その意見も、背景も否定するどころか、わたしだって誰かと聞いていたら、そう言ったかもしれない。

また、人間が感覚する一瞬は、18分の1秒で、それは映画などのフィルムの回転速度と同じそうである。それより早いと、一瞬だと感覚できないようだ。また、動物によって、時間の捉え方が違うようで、人間にとっての一瞬は、他の動物にとっての一瞬ではない。例えばカタツムリは、あれでも忙しく動いているのだそうだ。聞き手の女性が、川上哲治の「ボールが止まって見えるという話」を引き合いに出して、彼の時間の感覚は、普通の人間のそれではなかったという話になり、思わず膝を打った。同じ人間でも、同じ感覚世界で生きているわけではないのだ。

ところで、ついさっきまで考えていたこと、心を惹かれていたことについて、思いもよらぬ形で再開を果たしてしまうと、それを単なる偶然と言っていいのかわからなくなる。運命について考えてしまう。少なくとも、このようなことが起こったとき、その対象にもっと惹かれてしまうことだけは確かだ。偶然を装うことは、詐術におけるベーシックな戦術でもある。自分の好意や引け目を誤魔化そうとする行為でもある。だから偶然というのは自分が思っているだけで、実は偶然ではない、という場合は、自分が思う以上に(思うこと自体が少ないだろうが)あるはずなのだが、だからこそ、このような正真正銘の偶然に出会うと、高揚する。偶然において必須の要素とは、対象を挟んだ自分と相手との関係の、因果性の弱さに、あるいは弱いと感じることなのだろうか。

とにかく、人の記憶というのは、あてにならない。


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