死にゆく人にできること

いつだったか、日本最大の医療グループ徳洲会の創設者であり理事長、衆議院議員まで務めた徳田虎雄なる人物がテレビニュースに出てメッセージを発したときの、その仰々しさと、普段では考えられないような破格の扱いと、その様相の痛ましさをありありと覚えている。ALSを発症し体どころか顔も満足に動かせない徳田虎雄は、車椅子に固定され、屈強なSPを連れて、テレビカメラの前に現れた。彼は目の前に広げられた五十音のボードを、眼球の動きだけで操作し、なにかのメッセージを発していた。それだけでかなりの権力者であることがわかる。それを見ながら、五体どころか顔面すらも満足に動かせない徳田虎雄が、そうまでしてトップに立っていなければならない理由はなんなのか。こんなやり方で、テレビカメラまで用意してメッセージを伝えなければならないのか。その地位を、力を、譲るべき人はいないのだろうか。そんな風に思ったことが頭をよぎった。

わたしの祖父は、父方母方ともに亡くなっているのだが、祖母はふたりとも生きている。母方の祖母は介護施設に入っており、母が月一で見舞いに行っている。そろそろ祖母が危ない、と母は言った。昨日の日付変わり目に、母が携帯電話で密やかに話す声が聞こえてきてめずらしいと思ったのだが、どうやらその話だったようだ。祖母はすでに食べ物を食べられない日もあるくらい衰弱しているようで、そのまま食べ物を食べなくなったら、もしくは食べ物が喉に詰まったら、その時が最後なのだと言った。それでは餓死と、見殺しと同じではないか、とわたしは思った。衰弱している祖母を、喉に詰まらせて苦しがっている祖母を死ぬまで放っておくというのか。なんという話だ。と思ったが、何より辛いのは施設の人であることは言うまでもない。施設と話し合って、延命治療はしないと決めたようで(この決定に母は関わっていないのだが、ややこしくなるので割愛する)そういう場合は、このような最後の迎えかたになるのだ、と言う。延命治療をすることもなく、近いうちに、祖母は餓死か事故死で他界するのだ。衰弱して、体を動かすこともできない祖母だが、意識ははっきりしているらしく、お見舞いに行った際は、呻くように何かを訴えるらしいのだが、苦しみを訴えているのだろう。いっそ殺してほしいと言っているのかもしれない。もう長くないことが分かっていて、目すら開けられないほどに体が動かず、食事もできないくらいに衰弱して、それでも意識だけはあるのだ。そう思ったとしてもなんの不思議もない。むしろ殺してあげたい。

もう一方の祖母は、大腸がんを患っており、腹に便と尿を排出するための袋を二つぶら下げて生活している。週に一回、抗がん剤をもらうために病院へ行く。それ以外で家から出ることはない。こちらの祖母は、動くこともしゃべることもできるが、平均寿命を超えるか、という年である。自分でももう長くないことはわかっているはずだ。わたしは思う。祖母は一日でも長生きしたいと思っているのだろうか。いつか、いや近いうちに死が訪れることを実感していてなお、そうまでして生きて、満足に動かない体で、何かやりたいことがあるとでもいうのだろうか。接しているとわかる。そこにあるのは苦しみだけだ。希望などはない。もし祖母に、殺してほしい、もう死にたい、と言われたら、想像するだけで胸が痛む。その望みを叶えてやることは、裁かれるようなことなのだろうか。祖母の餓死を、事故死を待つその期間は、いったいなんなのだろう。消極的な殺人と何が違うというのか。その間に払うお金は、時間は、いったいなんなのだろう。なんのために払わねばならないのか。その間の心の痛みは、いったどう処理すればいいのだろう。