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あなたはどのような環世界の中に生きているのか

ゆくすキュルキュル(ユクスキュルと打ったら「ゆくす」くらいで真っ先に予測変換されたのだが、これはいったいなんなのか)の著書にこんなものがある。

生物から見た世界 (岩波文庫)

生物から見た世界 (岩波文庫)

これがとても面白い。
虫や鳥などの生き物は、みな環世界の中で生きている。ということを書いている本で、思い出したにあたって、もう一度パラ読みしようとしたのだが、紛失していた。なのでこれから書く内容は、うろ覚えだということを前置きするわけだが、なにはともあれ、すべての生き物は、環世界の中で生きている。

例えば、冒頭ではマダニの生態が取り上げられている。マダニは、動物の生き血を糧にしているのだが、生き血にありつく方法は、木などの高いところに登り、下を通る生き物を感覚すると、その上に落ちるようにして襲いかかり、顔をうずめて生き血を吸う。たっぷりと血を吸うと、地面に落ちる。そしてまた、近くの木に登り、獲物を待つのだ。下を通る生き物をどうやって感覚するのかというと、温度である。その辺一帯の温度の変化を感じ取り、比較的高く、動く温度をめがけて重力に身をまかせるのだ。高いところを感覚するのも、なんらかの道しるべがあるのだろう。マダニはこの狩りの方法を、誰に教わるでもなく、生まれた時からモノにしているのだ。

マダニは、生きて子孫を残し、死んでいくまで、このような狩りを繰り返すわけで、その一連の生活の流れ、システムを「環」の世界と呼んでいる。マダニはこれ以外の方法で、生き血を求めることはしないし、できない。つまり、その生き物は、その環世界をはみ出して生きることはないのである。虫のように、ある刺激に対してのシンプルな反射や反応のみで生きている場合だとわかりやすい。さながらbotのようでもある。

この本では、他の動物の環世界も書かれている。どんな生き物も、その生き物特有の環世界があるわけだ。

この本では触れられていないが、人間にも、環世界があるのではないだろうか。人間ともなると、かなり複雑になるのだろうが、人間ならではの環世界というものがあるのだろう。そして、その「人間」というくくりの大きな環世界の中に、個人個人の環世界があるのだと思う。どのような場所を行き来し、どのようなものに気を惹かれ、どのようなことを考え、どのようなことを発するのか、それは個人個人である程度、決まっているのだと思う。

三つ子の魂百まで、というわけじゃないけど、例えばネットのあるトピックについての反応はどうだろうか。否定的な意見を言う人は、たいていの場合、他のトピックでも同じような言い回しで否定的な見解を披露していないだろうか。ある個人、あるいはアカウントの意見や言い回しが、受け手がその個人に抱いている印象や予測を根底から覆すことなどあっただろうか。また、普段巡回している履歴、あるいは現実における生活の流れ、行動の選択肢とその選択などを俯瞰で見た時、それは弧を描いてはいないだろうか。わたしたちは、環世界という名の箱庭の中で、死ぬまでルーティーンな日々を送るのだ。自分探しというのは、自分の環世界を求める行為なのだろう。

ハミ出そうとしてもハミ出せない、壊そうと思っても壊れない「環」の世界で人間は、そしてわたしたちは生きているのだ。今ではもう定番化、陳腐化しているが、タイムリープを繰り返す物語や何気ない日常を繰り返す物語が、昔から作られ受け入れられてきた背景には、この「環」の世界についての無意識的な理解、共感があるからではないかと思う。物語の流れとして、起承転結や序破急がセオリーとして一般化しているが、自分が気に入った物語の「終わる」は、受け入れるのがつらい。いつもそうだ。終わってほしくない。ずっと見ていたい。そう思ったことはないだろうか。結から起へのループを切望したことはないだろうか。それは、わたしたちが環世界の中で生きているからなのだろう。

それはそれとして、生き物としての、個人としての、環世界の中で一生を送ることになるのなら、いま眼前をきままに飛び回る蚊も、また然り。その蚊の環世界の箱庭は、言うまでもなくわたしの部屋も含まれていることになるわけで、その蚊は一生、わたしの部屋で、わたしの血を求めて、わたしの周りを飛び回るのである。