アルビノの

わたしは、舞い落ちる木の葉をジャブで一枚も逃さずに捉える幕の内一歩のように、飛んでいる羽虫を手で捕まえることができる。蚊はもちろん、調子が良ければハエも捕まえられる。人と比べたことがないので、これが特技と呼べるものなのかどうかはわからない。

かの剣豪宮本武蔵の腕前をあらわす逸話に、飛んでいるハエを箸で掴んだ、というものがある。正確には、宮本武蔵の逸話ではないらしく、真偽のほどもさだかではないのだが、それはそれとして、わたしはこの逸話のシンプルさがとても好きだ。箸でハエを掴む、ということが並ならぬ難しさであることは、誰もが容易に想像できるだろう。それでいて、絶対に不可能だ!というほど荒唐無稽でもない。現実と非現実、真と偽、そのさじ加減が絶妙なのである。それだけではない。当時は、ちょうど群雄割拠の時代に徳川家康が終止符を打ったころなのだが、「飛んでいるハエを箸で掴む」というたった十文字の言葉で、その時代がどういうものだったのか、ということを端的にあらわしている。まず、ハエを「箸で」掴むという着想は、箸を持っているときにしか思い浮かばないだろう。つまり、ハエを箸で掴んだ主は食事中だったわけだが、食事中に眼前をハエが飛ぶということは、現在ではとても起こりにくい。先ほど、調子が良ければと書いたが、ハエが眼前をうっとおしく飛び回る事態に遭遇した記憶は、遠い遠い過去にまでさかのぼる。それは、私たちの生活が経済的に、衛生的に、豊かになったからである。翻って、徳川幕府が開かれたころはどうだったのだろうか。当時の町の衛生管理、経済事情、武士の生活、性格、そういった悲喜こもごもが「ハエを箸で掴む」というみじかい一節の中に、全て、きれいに詰め込まれている。また、この「ハエを箸で掴む」という行為を、芸としていたという話もあり、庶民の生活までもが、ありありと切り取られている。

そして今、わたしが掴んだ蚊は、アルビノであった。アルビノの人間が生まれる確率は、人種によって違うようだが、一万分の一とも二万分の一とも言われる。虫ともなると、その確率はさらに低くなるようだ。当時も、そして今も、名を知らぬものがいないほどの大剣豪は、いったどのくらいの確率で生まれるのだろうか。今、机の端でまさに虫の息になっているアルビノの蚊と宮本武蔵が、わたしの中で重なっていく。手だか足だかを痙攣させている蚊の手だか足だかが、ぽつ、と一本落ちた。



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