四角に支配されている

見慣れたモノが、ふと、今までと変わって見えることがある。他県に行った際の車窓から見える景色がそれだった。なんのことはないただの県庁所在地の街並みなのだが、わたしはその景色の「四角」がやけに気になった。家、マンション、施設、道、鉄骨、くるま。意識して見てみると、ほとんどのものが四角でできていた。これほどまでに「四角」のなかで暮らしていたとは。わたしは、なんともいえない気持ち悪さを感じた。あるいは、ここに文化的な思想があるのだろうか、と考えた。どうしてこうまで「四角」なのか。合理的な理由はたくさんあるだろうし、なんとでも言えるのだろうが、一番の理由は、おそらく、作るのが楽(安い)だからだろう。球体の住まいや、球体の家具が一切無い、ということはないが、それらは比較的高価である。ともあれ、センス無く、楽しさも無く、味気も無いデザインが、街を埋め尽くしている。一軒一軒を見てもたいがいなのだが、それらが林立した街並みは、同じような「四角」なのに、それらが集まると、互いに互いが見栄え的に邪魔をしている、そんな気持ち悪さがある。球形の建造物は、見る機会が少なく、心が躍る。球形の建造物は、主に流体や気体を貯蔵する建物の形と考えて良い。これは、流体や気体が流れやすく、滞ることのないようにするためだ。学が無くとも、風呂の角が丸いことを考えればなんとなく理解できる。つまり、球体の建造物には、そうでなくてはいけない理由がある。しかし、四角はどうだろう。人の家は、その施設は、四角である絶対的な必要はあるのだろうか。かなり昔の記憶になるが、球体の住まいを見たことがある。それは家、というよりも別室のような大きさであったが、強く印象に残っている。テレビ番組の建物探訪だったと思う。他に珍しい建物を紹介するテレビ番組などがあった記憶はないので、おそらくは。電車を降りて、街を歩くと、いよいよ四角い。四角い道を歩き、見える建物は、四角いパーツが積み上げられて、四角いパーツを貼り付けられて、四角い窓をつけられて、四角い扉をつけられて、四角い板が敷かれ、部屋は四角く区切られ、そしてできた四角い建物なのである。気が狂いそうになる。何百年も前に建てられた城を見ながら思う。こんなにもやる気の無い、好奇心をそそらない四角い建物で埋め尽くされた都市を、未来の人々はどのように評価するのだろうか。瓦。瓦の形は独特だ。上から見れば四角く、横から見ると丸い。そんな瓦が織り成す屋根の複雑な形は、見ていて楽しい。昔の人の方が、楽しさに対して、真摯だったような気がしてならない。城は、その土地の支配者が住んでいたわけだが、そういう意味では、現在では市庁舎や県庁舎がそれにあたるのではないかと思うのだが、その建物の四角さときたら。あの冷たい、安っぽい造りは、いったいどういうわけなのだろう。思えば、その地域の有力者は、見た目に楽しい住まいを構えていることが多い。それは「四角」の分量が少ない、ということでもある。四角分量が少なさは、お金がかかっている、ということでもある。そんなわたしの気を引いたのは、交通標識であった。標識は丸かった。こんなにも四角に溢れた社会であるからこそ、丸いのだろう。意識してみると、その四角の世界のなかの小さな丸は、なかなかの存在感だ。これが四角だったらどうなるんだろう。交差点に置いてあるミラーもまた、丸かった。信号機も丸かったが、歩行者用の信号は、やや四角であった。なかには、逆三角形の標識もあった。わたしが見た逆三角形の標識は、すべて黄色であった。黄色は色彩学的にも、注意を引く色である。これは目立つ。命に関わる交通に関する案内であるわけだから、なんとか目立たせたい、という作り手の気持ちが、その「丸」や「逆三角」から伝わってきた。その標識がデザインされたのも、それが目立つのも、すでにわたしたちの世界が四角で支配されていたからである。近年になって「丸」や「丸みを帯びたもの」が多くなっている。ひとつは、角で怪我をしないように、という優しさ的観点からだ。そして、丸は交通にも進出してきた。あの忌まわしい四角い交差点も、信号機を排した丸い交差点というものが、海外にはあるらしく、どこだったか失念したが、ある県で試験的に導入したというニュースもあった。車のデザインも、年々丸みを帯びてきている。この調子で、丸いもの、特に球体が社会に増えるといいなあ、などと特に理由もなく思う。


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