perfect human症候群

間違いがない、ということなど、あるのだろうか。
何かを発信するときに、それは正解でなければならないのだろうか。
何かを語るなら、それについて全て知っていなければいけないのだろうか。

例えば、なにかにを批判するときに「何周目だよ」という人がいるが、じっさい何周目なのか、明かされることはない。それがなぜなのか、その流れをつまびらかにすることもない。ただ、何度も繰り返されてきた話題だからといって、それを新しく疑問に思った人のその新しさは、批判されるようなことではない。高校生や大学生が「生まれてきた意味について」のモヤモヤを言葉にしたときに「何周目だよ」などというようなものだ。そんな指摘には、なんの意味もない。そんなしたり顔ができるのも、自分が優れていると思っているからなのだろう。そして、それを認めてほしいのだ。「他人完璧でないといけない」という厳しさは、自分の首をしめるものでしかない。そういう人の特徴として、叩きやすいものしか叩かない、ということがある。誰かが叩いているのに乗っかって、ごくありふれた意見を並べるだけだ。それで得られるものは、優越感しかない。つまり、そういう人は、劣等感の中に生きているのだ。「完璧でないといけない」と思っているのだから、当然だろう。また、そういう人が「自分こう思う」「自分こう思う」という独自の視点を語ることはない。それは、間違うことを恐れているからだ。相手に付け入る隙を与えてしまうかもしれないからだ。その思考から、独自の視点が生まれることはない。つまり、つまらない人なのである。その人がどれだけネットや本からから情報を、識見を漁ってこようが、それはその人のものではない。他人のふんどしで相撲を取るようなものである。この判定には微妙なところはある。その批判的な意見や記事には、なんらかの意図が潜んでいるのだが、その知識が、他人を批判したいため、自分の満たされない承認欲求のために持ち出されるのであれば、迷惑以外のなにものでもない。例えば、誰かのブログを批判する人が「間違いを指摘されたのに平然としている」などとネチネチいうが、いったい何を求めているのだろうか。謝罪をしてほしいのだろうか。ブログを書くのをやめてほしいのだろうか。しかし、そのような要求がされることはない。能動的に積極的に、先頭に立つことはないのである。彼らにとっての完璧とは「自分を責められない」ということでしかない。したがって、勝てるときに、勝てる相手にだけ、勝てるような攻撃を、なんども繰り返す、ということになる。それは、絶対に負けることのない戦いであるがゆえに、神の視点となるのである。彼らの意見をもう一度見直してみるといい。自分の意見などというものがひとつもないことがわかるだろう。それにしても、この手の輩が男ばかりなのはいったいどういうわけなのか。というかそんな女は見たことがない。男性社会が産んだ男性ならではの承認欲求におけるルサンチマンの発露といったところだろうか。なんちゃって。



広告を非表示にする