いれずみとこんじょうやき

入れ墨がどうのこうのと賑やかなようで。

文化がどうだの言う人がいるが、自分の親が生まれてもいない時代の入れ墨の扱いを例に挙げているのを見ると、さすがにいちゃもんというか、批判のための批判というか、性根を疑う。仮に、罪人に彫られたものと同じ紋様を同じ場所に彫っているというのならまだわからなくもないが、それでも当時とはまた違った意味合いが生まれるはずだし意図してるはずであり、文化とはそうやって螺旋を描いて変化していくものだ。文化文脈を知ってからやれ、なんていうのも暴論ブーメラン以外の何物でもない。自分のやることなすことについて、すべての文脈を踏まえることなど誰にもできない。机上の空論とはこのことだ。さらにその知識がネットでちょちょいと検索して出てきた情報であろう点も非常に薄っぺらい。そのことに人生を捧げた人ですら、過去をあまねく遡ることはできないというのに。ネットで気軽に色々な情報に接することができるようになったわけだが、実体験に基づかないただの昔の情報の一部をネットから切り取って、異議あり!くらえっ!と突きつけるのはとっても薄っぺらいし、そんな詭弁では到底納得できない。

入れ墨=悪人という記号的イメージはもちろんわたしにも少なからずあったわけだが、そのイメージは文脈を知ることで芽生えたものではない。わたしが子供の頃は、入れ墨を見ること自体が非常に稀で、入れ墨をしている人はすべからくそっち系の人だった。その事実と、テレビの演出や親の反応から感じ取ったもので作られたイメージであって、それは文脈というにはあまりに拙く、偏っている。これはわたしだけの話ではないだろう。というか入れ墨=悪人というイメージは、既にそっち系の方にも浸透しているわけで、今時、これ見よがしに入れ墨を披露する極道もおるまい。そっち系の人間が社会から積極的に排除されるようになった現代においては、入れ墨が持つ記号的な意味合いも異なるものになってきている。

日本には、根性焼きという文化があって、文字どおり根性の証である。(いじめの手法として用いられることもある)学生時分、根性焼きを自慢げに見せつけられたことしばしば。20歳を超えてからも、ふとしたことで他人の腕に根性焼きを見つけてしまうことしばしば。あのなんとも言えない気持ち、わたしにとっては、若さというよりダサさの象徴であった。おそらくだが、当人も消せるものなら消してしまいたいと思っているだろう。根性焼きはタバコでするものだったのだが、タバコを吸う文化が廃れてきている現在でも存続しているのだろうか。

個人的には、入れ墨が入っているかどうかで人を判断するのは古くて固くて野蛮だと思う。もちろん判断に足る入れ墨というものもある。それだけの話。

入れ墨の次は、焼印の文化でも輸入したら流行するかもしれない。
「実はアフリカに行った時に世話になった部族に認められてね。家族の証に是非、と言われてしょうがなくね」
なんて嘘でも吐けば、それっぽく見えそうだが、奴隷だの家畜だのカイジだのとチャチャが入りそうだ。

焼きごて にこり スマイル 【焼印 】

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