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無関心のススメ

フランスの哲学者ベルクソン(1859-1941)が、「笑い」という本を遺しているのだが、いつまでたっても読み進まない。いつもいつも初めの数ページで読む気が失せる。もう書いてることがややこしいわめんどくさいわ、お前わざと回りくどい言い回ししてるだろ!と言いたくなるくらい読む気がしない。
(訳本が読みにくいのは、訳者の力によるところが大きいとは思うのだが)

とはいっても、そこはさすがは哲学。初めの数ページでも「これは!」と柏手を打ちたくなる見解がありました。その引用から、この本のめんどくささの片鱗を知っていただくと同時に、その見解について少し考えてみようかと存じます。

次にこれに劣らず注意に値する一つの徴候として、通常、笑うに伴う無感動というものを指摘したい
笑いには情緒より以上の大敵はない。例えば、憐憫とかあるいは更に愛情をさえ我々に呼び起こす人物を我々が笑いえないと言おうとするものではない。ただその時でも数刻の間はこの愛情を忘れ、この憐憫を沈黙させなければならぬのである。
一方、常に物に感じ易く、生の合唱に調子が合っており、あらゆる事件が感情的な共鳴を伴うようになっている心の人びとは、笑いを知ることもなければ、理解することもないだろう。
わかるようなわからんような……。

感情移入や思い入れが強いと、笑えないってことなんだろう。

例えば、ある芸人がネタをやったとして、赤の他人がそれ見るのと、その家族、友達、恋人、浮気相手などが見るのとでは、見え方が違ってくるということだ。赤の他人が笑えるものでも、笑えない人もいるし、その笑顔の裏の心も、その人との関係によって違ってくるということだろう。

例えば、志村けんのコント番組では、ちょっと頭がイッちゃってる系のおじさんのセクハラコントが必ずあるわけだが、これを笑って観れるのは、「そんなやつぁいねーだぁよ」と思っているからで、実際に痴漢被害にあった人や、それに準ずる経験をした女性にとっては笑えないのだろう。逆に、そういう行為をしたことがある男性の笑いは、私たちの笑いとはまた違ってくるのだろう。

例えば、最近世間を賑わせた不倫騒動や賭博騒動でもなんでもそうだが、誰かの失態や醜態に対して、やたらと非難ばかりを目にすることが多いわけだが、そんなことでも「バカなことやってんな」と笑っている人もいるということだ。わたしは、どちらかといえばそういう「笑う」側にいた自覚があるが、気がつくと、笑えることが少なくなっている。これについて、年をとって考えが硬くなったということを実感する。また、社会的にそういう「笑ってはいけない」空気が強くなってきていることも実感している。

下手に理解を示されるより、何も知らないで笑ってくれた方が救われる、ということもあるが、いつからか、そういう人に対する嫌悪感の表明を見聞きすることが増えたし、自分でもそう思うことが増えた。下手に信用できるかどうかわからない知識を一夜漬けで手に入れて、その代わりに笑えなくなるよりは、最初から無関心であったほうがいいのかもしれない。知らぬが仏とは、そういうことなのだろうか。

笑い (岩波文庫 青 645-3)

笑い (岩波文庫 青 645-3)




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