あれとかあれとかあれとかあれ

おれが嫌いな言葉は「本質」と「正論」だ。
こういう言葉を使うやつがとっても苦手。
なにがウザいって、この手のやつらはやたらとこの言葉を使う。それは文字通り「本質」「正論」という言葉であって、本質と思わしき言説や正論と思われる言説であったためしがない。自分の主張に権威をつけたいという下心が見え見えなところもうっとおしい。たいていの場合、正論や本質と思わしき点は、たくさんの人がかみしめている。それでもそのとおりになっていないところに人間の業というか、どうしようもない味わいがあるわけで、それは切っても切れない個人的な事情によるものであり、それこそが社会に生きる人間というものではないのかと思う。いくら正論だ本質だとわめいたところで、現実から目を背けているだけなのだ。なぜ現実がそうなっていないのかを考えれば、あまり口にしていい言葉ではないと思う。品がない。といっても、文字通り言葉としての正論や本質を声高に連呼する人たちの主張する正論や本質の内容そのものに疑問を呈したいことがほとんどなのだが。ただの言葉としての正論や本質を口から吐いて、それで正論や本質を言ったような気になって胸をそらしているのである。その誇らしげな顔が醜い。

で、この手の人たちが特に嫌なやつなのかというと、あまり関係がない。友達かどうか、その人のこどこを知っているか、その人にどこを知られているかで互いに関わりかたが変わるわけで、かりそめの付き合いにおいては支障がない。残念なことに、そういう人はどこにでもいる。そういう人の共通点は、じぶんの意見をごり押しする、じぶんの発言で締めようとする、われがわれがという感じだ。要するに、やたらと本質だの正論だのという言葉を使うやつは嘘つきだ。間違いない。誠意とか正義とか敬意とか感謝とか、なんでもいいけど、そのままの言葉をむやみに使うやつは、今までにどれくらいいてそれがどういうやつだったのかを思い出してみるといい。その言葉が似合うやつなど、どこにもいなかった。それは、その言葉を使えば、その言葉が持つ意味をじぶんに付加できると思っているからであり、それは人を騙そうとしているといって差し支えない。その言葉があらわす意味は、そのまま現実に当てはまらないことが多い。

こうして長々と書いているのは愚痴なのか悪口なのか。それとも気が触れてしまったのか。そうは思わない。じぶんをじぶんたらしめているのは、好きなことだけではない。生きるということは、絶対的に嫌なことの方が多いのだから、嫌なことは嫌だといいたいし、それをとやかく言われる筋合いもない。ただ、バーターのバーターのバーターのバーターみたいなやつらの品の無い貧相な気持ち悪い顔が雁首そろえて並ぶ様が嫌いなだけなのである。嫌なら見なければ良い、なんていうけれど、嫌なものを避け続けることはできない。だからこそ、嫌だから見るのである。嫌なものを見て、ああやっぱり嫌なものだと確認することは、耐性を保つためにも、じぶんの立ち位置を確認するためにも必要なことなのだと思う。だからこそ、炎上が商法として成立するのだろうし、それを見ては気分を悪くするのだろう。それはいわば、毒素の見聞のようなもので、そうした体験を積んだからこそ、ああこいつは嘘ついてるな、とかアレなやつだなという目利きができるようになるのだ。そういう意味では、楽しんでいるという言い方もできる。