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TCCが閉鎖的で内輪的で排他的な組織だったとしても、誰も文句は言えない

気になる話
東京コピーライターズクラブ(TCC)は、そろそろ解散すべきだと思う。 - コピーライターの目のつけどころ
少し前、この記事が話題になった。

コピーライターの登竜門的な賞の広告
f:id:friedhead:20160208183333j:image

この広告の
誰に、
ほめられたいんですか?
 
「いいね!」と
仲間うちに褒められるのも
うれしいんでしょうけど、
本当は、誰よりも、
一番厳しいあの人に褒められたい。
ですよね?
このコピーについて、記事主は
この広告が、広告業界のダメさ加減を物語っているように思います。つまり、閉鎖的で、内輪的で、排他的で、「社会のほうを見ていない」ということが表れてしまっている。
ということを読み取ったのだという。

言いたいことは良くわかるのだが、なんとなくモヤモヤする。「社会の方を見ていない」というこの「社会」という言葉の曖昧さが腑に落ちないのだ。

コピーは、基本的に商品につけられる。商品は、「社会のほうを見たもの」ではなく、それを必要としている人、それを必要とするだろう人たちを見て作られる。だからコピーは、社会のほうではなく、「購買層としてターゲットされている人たちを見たもの」が求められるはずだ。

で、このTCCという組織が、閉鎖的で内輪的で排他的なものであるかどうかは別にして、TCCが催す賞レースであれば、その審査員が気にいるだろうコピーを考えるのが普通で、そこに「社会のほうを見る」必要ないと思うし、組織がそうである必要もない。

社会のほうを見ても、社会のためになるとは限らない。社会のためになるのは、あくまでも結果の話で、その過程は「個人のほうを見た」個人のためのものであるはずだ。普段の仕事で、「社会のほうを見て」働いている人などいるのだろうか。ほとんどの人は、目の前の客のため、会社のため、自分のためなど、狭い範囲の中で、焦点を絞って考えを巡らせて悪戦苦闘しているのではないだろうか。各々が「個人のほうを見て」動くことが、結果的に「社会のほうを見る」ことになっていると思う。そもそも「社会」というのは実体がないものだから、見ようとして見られるものではない。アリは、餌を運ぶ自分たちの列を俯瞰することはできない。
結局なにが言いたいかというと、こういった内輪の団体は、もう必要ないのではないかということです。「コピーライター」とう職の知名度が低い時代に、ある程度の役目は果たしてきたのかもしれませんが、今の時代はいいものは社会が評価してくれます。
この「社会が評価する」というのも、言ってみれば個人の評価の集積であるわけで、個人と言ってもやはり、なにかしらの内輪的なつながりの中で、情報を仕入れて共有している側面がある。昔もそうだろうが、現在もやはり、各所で内輪的な団体が無理を通して幅を利かせている現実がある。

個人と組織では、努力しても超えられない壁がある。

例えば、はあちゅうという人が、この記事に大きくうなづいているが、そういうじぶんは、内輪的で閉鎖的で排他的なサロン運営で、収入を得ている。違いがわからない。こういう人たちは、他にもいるが、彼女らが職場であったり、知り合いであったりの内輪的な力を借りず、個人として活動していたら、今のような形態で収入を得ることができただろうか。

例えば、現在、伝統工芸は廃れている。跡継ぎがいないとか、実入りが少ないとか、いろいろな問題があるが、その技術は十分すぎるほど評価に値するものだと思う。しかし、社会は評価しない。だから廃れていく。一方で社会に評価されているのはどういうものか?それらは本当に評価すべきものと言えるか?

結局、「社会のほうを見る」とかキレイごとを言っても、現実に見なければいけないのは「個人のほう」であり、社会など、見ようと思って見られるものではないし、見る人によって見え方が変わるのが社会というものだ。社会のほうを見ていたら、なにもできないし、なにも言えなくなると思う。

記事主は、そのような広告業界にいた人だから、もともと閉鎖的で内輪的で排他的な組織であるということを痛いほど実感していたのだろう。砂を噛む思いをたくさんしてきたことと想像する。だからこそ、このコピーに食らいついて思いの丈をぶつけたのだろう。

わたしもそうだが、おそらくたくさんの人が、このコピーを見て記事主と同じような思いを抱いたことと思う。なぜなら、そのような閉鎖的で内輪的で排他的な組織というのはどこにでもあって、それについて歯がゆい思いをした経験があるからであり、またそういった組織の構成員でもあることを自覚しているからだ。

ということは、このコピーは、芯を突いた良いコピーであると言える。

どんな組織だって、閉鎖的で内輪的で排他的な側面がある。それは組織の長所とも言える。どうせなら、力のある組織に入りたいと思うのも人情だろう。しかし、みんながそこに入れるわけではない。社会で評価されることを信じて、個人で活動するよりは、同志たちと小さな組織を作り、その中で評価をかさ増ししようとすることもまた、人情だろう。

余談
少し前に、パクリ記事を書いたブログ主について言及したら「嫉妬乙」などというコメントをもらった。彼は、わたしのブログは読者数が少ないから、わたしの言及を嫉妬によるものだと断定した。そのパクリブログは、1000人ほどの読者がいるわけだが、だからパクろうが誹謗中傷しようが、評価されているのだと考えているらしい。評価ってなんだろう、と思う。