〇〇〇ごっこ

高校生の頃のこと。わたしは友達と二人で、繁華街の洋服屋をめぐっていた。
といっても、持っているお金は、洋服をやっと一着買えるくらいしかないので、さしずめウインドウショッピングといった趣。暇を持て余してブラブラしていたわけ。

「ま〇〇ごっこしようぜ」
ふと、友達が言った。

「いいよ!」
よくわからないが、とりあえず受けて立った。

〇〇〇ごっこというのは、「〇〇〇(好きな単語をあてはめよう)」と交互に言うだけのゲームだ。前の人よりも大きな声で「〇〇〇」と言わなければならず、言えなくなったら負け、という単純なルール。要するにチキンレースなんだけど、負けたら崖から落ちる、とか壁にぶつかる、とかそういう物理的なペナルティはなく、ただ恥ずかしいだけ。羞恥心のチキンレースなのだ。いま思えば、なかなか奥深いゲームである。





友「〇〇〇
「〇〇〇〜!!!」
はい俺の勝ち。おしまい。





このような超短期決戦が二回続いたところで、友達は勝負を挑んで来なくなった。

勝因の大たるところは、これがストリートでの勝負だったことにある。これが学校での勝負ならば、おそらく勝てなかっただろう。わたしには、その単語を学校で叫ぶことは絶対にできなかった。学校における羞恥心の基準は、わたしのほうが厳しかった。その基準値は、わたしが異性との関係に乏しかったことと、学校における所在の基盤の薄さからきていた。

ではなぜ、東京生まれでもヒップホップ育ちでもないわたしが、ストリートで無双できたのか。このへんの心境は、道端に自意識をポイ捨てする心理のような気もするし、自意識にまみれた奇抜な格好をして街を闊歩する心理のような気もするし、そうではない気もする。ま、若気の至りということでひとつ。

そんなことよりも興味深いのは、やることは同じでも、人によって、そのときの状況によって、気分によって、羞恥心のありようが変化することだ。羞恥心は、実はうつろいやすい。言っていいこと悪いこと、やっていいこと悪いことが、本人の意思とは別のところで変化することがあるのだ。

赤信号 みんなでわたれば 怖くない  という交通標語がある(ない)が、この「みんながやっているから」という感覚は、羞恥心あるいは危機感を麻痺させる。そのことと、その行為自体の「恥ずかしさ」や「危険度」は、まったく別の話であるにも関わらず、「みんながやっているから」ということが「それをやる」理由となり「それが正しい」理由になる。

わたしが「〇〇〇」と叫ぶことは、公序良俗的観点から考えて確実によろしくないことだったのだが、みんなが「〇〇〇」と叫ぶような社会であったなら、それはよろしいことになってしまうのだ。そんなバカなことがあるもんか、と思うかもしれないが、残念なことに世の中はそんなことばかりなのである。そういう人のほうが生きやすいのだ。

わたしは家を飛び出し、天を仰いだ。
そっと、つぶやいてみる。

「〇〇こ」

答無し。
暗い虚空に、ただぼうぼうと風の音。




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