しむらは二度死ぬ

しむらけんを見ると、なんとなく、ほんわかするのである。なんかおちつく。

しむらけんはドリフターズで頭角を現したが、わたしはドリフ直撃世代ではない。しかしカトケン世代なので、しむらと加藤には並ならぬ愛着があると言っていい。

しむらけんといえば、もちろん「だっふんだ」である。オチに持ってくる顔芸なのだが、子供の頃のわたしがマネをしたかというと、そうでもない。あれがオチとして成立するのは、「だっふんだ」ではなく、みんながズッコケるところと、アルミ缶をひっくり返したような効果音があってこそなのであり、ここが一番大事なのだが、その流れの全てを、外から見る立場でなければならない。吉本新喜劇的お約束を現実に持ち込むことは、ファンタジーの必殺技を叫んでいるようなもので、大人になっていつかのとき、実際に「だっふんだ」を繰り出すと、なんとも冷たい空気が流れたものだ。

「変なおじさん」もまた同様で、あの、腰を左右に振りながら、腰の前で手をくるくるさせたり、腰を前後させながら、両手を腰の前に突き出し、ゆるく円を描くように腰の後ろに回す仕草も、あれがどうにも好きなんだが、実際にやると「なにやってんすか」としかならない。驚くことに、それは対応としてまだマシな方なのだ。手を二回叩いた後、開いた片手を前方ななめ上へ突き上げる仕草も同様で、コレの場合、人に突き刺さってしまう危険が非常に高い。現実に人と話をするときは、向かい合っており、距離も近いのである。誰にもマネされることなく、そしてしむらは死んだ。

冷たい土に埋もれ、風に吹かれること幾歳月。しむらは、「アイ〜ん」をたずさえて甦った。これがまた良くできていた。しむらも手応えを感じていたはずである。「アイ〜ん」は、「驚いた猪木」の顔マネをしながら、ヒジテツを繰り出すというものだった。当時には、もうすっかり顔芸のスタンダードとなっていた「猪木の顔」を驚かせる、というヒネリを加えたのである。これだけでも十分通用するのだが、しかし顔芸の域を出ない。そこで「ヒジテツ」である。なんということでしょう。ほんの少し、手の動きを加えるだけで、顔芸ではなくギャグに昇華したのである。「変なおじさん」は、手を伸ばすことによる危険性と、全身を使った動きのため汎用性に乏しく、また大げさな動きのため、日常での使用に適していなかったのを、見事に改善した。そもそもヒジテツは、接近戦のための技である。肘を曲げることにより、視聴者の現実の会話において、当たらずも遠からず、というちょうどいい距離感を術者自らがその場で調節できるという適応性と創造性をもたせることに成功した。わたしたちの日常に寄り添った、ズバリ匠の技なのである。

「アイ〜ん」は全国民をトリコにし、みんながマネをした。国民の統計を取ってみるといいだろう。限りなく100%に近いはずだ。もちろん、しむらにとっては、それみたことか。といったところだろう。

それまでのしむらのギャグは、日常で使い勝手が悪かった。そしてしむらは死んだ。しむらにとって代わったのは、ゲッツであり、なんでだろであり、オッパッピであり、ムッシュムラムラであった。しむらの死後、視聴者がマネできるギャグがウケる時代になってしまっていたのである。

いかがだろうか。当時のしむらの焦りが、苦悩がいかほどのものか。頭部を見るまでもなく、推して知るべし、なのである。そして「アイ〜ん」は生まれた。「アイ〜ん」は、さだめのごとく天下を獲り、そして、今はもう……。否、しむらは今一度、甦る。あらたなる武器をたずさえて。


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