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語尾を呑むことについてと、すべらない話

新春か年末に「赤めだか」 っていうスペシャルテレビドラマがあって、その原作は立川談春が自らしたためた自伝で、すでに本で読んでいたから、楽しんでみたんだけど、そのテレビドラマ版でも「語尾を呑むことを談志師匠に注意される」というくだりをやっていて、それは原作にも書いてあった。

それは、どちらもほんのワンシーンなんだけど、非常に専門的な事で、さらにどちらでも「語尾を呑む」ことがぢういうことなのか詳しく解説していないわけで。そんな描写をテレビドラマでも入れていたところになにかしらのこだわりというか気概のようなものを感じたわけで。

それくらい「語尾を呑まない」ことが噺家の基本的かつ重要な技術なんだろうなあ、と思った次第なんだけど、じゃあ「語尾を呑む」っていったいどういうことなんだろうっていう疑問が晴れることはなかったわけで。自分で考えざるをえないわけなんだけど、単純に「語尾」で息継ぎをしないってことなんかな、と考えたんだけど、息継ぎなしで喋り続けると、いずれ死んでしまうわけだから、なるべくってことなんだろうけど、例えば文章でいうところの「。」にあたる部分は間違いなく語尾なわけで、その部分での息の継ぎ方をどうするのかってところが流れるように話をする時の大きなポイントになるわけで、要するにリズムとテンポの話なんだろうけど、息継ぎをしないというのはあり得ないので、息継ぎのポイントをどこに持ってくるのかというところから既に計算されているということになるし、息の継ぎ方で作る「間」にも、色々あるわけで。

それは音楽と遜色なく、歌謡曲を聞いていても「そこで言葉を切るのか」というところが歌の切れ目になっていたりするのが気になったり、気に入ったりするのと同じようなことだと考えていいのだろう。で、そういうことを意識しながら流れるように話をしてみようとすると、これが非常に難しいわけで、少なくとも話の内容と組み立てが頭に入っていないと不可能なわけで。

で、よくよく考えてみると、普段の話で「。」をあまり使っていない。言い切る形で話を切ることがいう時も聞く時も非常に少ないことに気がついた。たいてい「て」「ど」「に」などで切られる。それは「。」ではなく「、」だ。こちらのほうが言葉が切りやすい、つまり息が継ぎやすいが、リズムや強弱が単調になりやすい。もちろんある程度アドリブで話しているわけだから、むしろそうならざるをえないのだろう。


「すべらない話」を、その辺に注目してみていたら、吉本芸人は比較的「。」と「、」を使い分けているな、という場面が多かった。つまり、リズム、テンポ、強弱があった。そのへんは、やはり老舗というところなのだろうか。話芸というか、「話がうまい」かどうかという伝統的、技術的な部分は、やはり吉本枠に分があるんだろう。面白いかどうかというのは、また別の話だが、技術であるからには、優れているほうが、面白く感じやすいのは間違いない。バカリズムの話は「、」が多く、春日の話には「。」で区切る場面が多かった。どちらも面白かったが、春日のほうがよりそれっぽい感じに聞こえたのはそういう技術的な部分のおかげだろう。

「。」で切ることが多いと、テンポが悪い。だからだめだというわけではなく、力強さが求められる。大きな太鼓をドーンドーンとやっているような感じだ。宮川大輔はちょうどそういう感じで、コテコテの、昔ながらの関西的な話術といった風情だった。

最近というか、話し言葉には「、」で切ることが多いように、音楽でも歌詞を「、」で区切るような曲が多くなったのは、そのほうがリズムが出るからだろう。音楽の場合、緩急や強弱の部分はかならずしも歌詞が担う必要はない。

実際どうなんやろか。

追記
ふとBSをつけたら「昭和元禄落語心中」というアニメの第1話をやっていたが、ここにでてくる若い茶髪の落語は、まさに「語尾を呑んでいる」と言っていいだろう。本物の噺家のものと聴き比べてみるといいだろう。やはり本物の噺家と声優では技術が違うということか。