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瞑想バカ

私が人生における迷走を自覚した時、瞑想と出会った。それは、誰もがそうなるであろうと思えるほど、自然な出会いだった。

わたしにとって瞑想とは、要するに苦行の一種である。そう認識するに至った。何も考えない、何も動かない、何もしない、それがすでに苦行なのだ。人間は、長時間同じポーズでいると、筋肉が固まって動かなくなってしまう。人間は、動かずにはいられない。考えずにはいられない。

実際にやってみるとわかる。その場に座り、深呼吸の要領で、肺がいっぱいになるまで、ゆっくりと深く息を吸い、肺が空になるまで、ゆっくりと長く息を吐く。どれくらい続けられるだろうか。体がこそばゆくなるのを我慢できるだろうか。手足は貧乏ゆすりを始めていないだろうか。なにもせず、そこにいることに、どのくらいの時間、我慢できるだろうか。こうした苦行の先にある感覚は、いわゆるゾーンやランナーズハイのようなものと似ている。

瞑想は、わたしたちが生まれるずっと前、生活が便利でも快適でもなかった時代からある。扇風機もストーブもなく、電気もなく、快適な衣服もなく、虫の侵入を許さない密閉された空間もない。それだけでも、昔の瞑想がどのようなものだったかが想像できる。間違いなく、現在のそれよりも過酷だったのである。

試しに外で、誰もいない海辺や山の草原でひとり、やってみるといいだろう。陽射しが肌を焼き、風にかじかみ、土はしっとりと尻を濡らし、草やアリは足をくすぐり、蚊は腕に泊まり、ハエは頭上で煩わしい羽音をたてる。そのような環境下と現在の快適な空間とで、全く異なるとまでは言わないが、同じものが得られているとは考えられない。

瞑想は苦行なのである。苦行でなければ、瞑想ではないのである。

苦行であるからには、一般庶民の生活とは、相容れないものがある。それでもなお、たどり着きたい境地があるから行っているわけである。一度や二度瞑想をしたからといって、簡単に手に入る感覚ではない。アトラクションや麻薬や向精神薬とはわけが違う。つまり「わたしは、苦行によって得がたい感覚を体験した」と吹聴する人は、かなりの熟練か、ホラ吹きのどちらかである。しかし、あくまでも主観的な感覚を、あたかも普遍のものとして喧伝する浅薄さは、およそ熟練とはいえない。ゆえに、やたらと瞑想うんぬんを説くのは、例外なくホラ吹きと言って差し支えなく、ただ己の傲慢さを露呈しているだけなのである。

なにが言いたいかというと、わたしは瞑想をつづけることができなかったということだ。



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