言語ではないもので会話をすること

将棋の中継を見ていると、解説者が序盤や中盤にさまざまな分岐があることを示すのだが、実際に駒を動かしてもらわないとうまく頭に入ってこない。序盤には歴史があり、中盤には深いところでの駆け引きがあるので、全てを網羅するわけにはいかないということはわかっているのだが。終局時も、詰みの手順がまったく見えていない場面で投了することがある。あらゆる手順での詰み筋を解説して欲しいのだが、たいていは最短手数を軽く示す程度だ。

今では少し減ったが、将棋を始めた当初は、それがまったくわからなくてモヤモヤイライラしたままなことが多かった。それは「ここから先は、わかりますよね?」という、わかる人にはわかるといった感覚が羨ましかったからだ。その理解度が深まるほど、声なき声を聞くことができるようになる。棋は対話なり。それはちょうど、英語がわからない人が英語を喋る人と会話ができないことと同じだ。あ、うんの呼吸。ツーといえばカー。言語ではなく、ツールで会話することが心地良さ、美しさは、シンプルで洗練された数式に通じるものがある。ま、微分積分もできないわけだけど。

例えば漫画やアニメ、小説などで、読者が読んでいるだろう作品のセリフや、設定のパロディが出てくるのも、上記のような共通言語なわけで、理解できる言語がでてくると、パアッと物語の奥行きが広がっていくことがある。楽しい。

例えばお笑い。落語だと、詳しい人は、マクラを聴いている段階でどんな話をするのかがわかるという。その時代のことや噺家のことや一門のことや色々知っていることが多いと、よりたくさんのおかしみを読み取れるわけで、それは将棋と同じく、初めての人には分かり得ない楽しみだ。

普段の会話でも、流れが読めることがある。「ああ、あの話につなげるつもりだな」と思えば、それを話しやすいようにもっていったり、自分のタイミングに合わせようと引き延ばそうとしたりする。「いや、そこではこう言わないとダメだろ〜」なんてダメ出したい時もある。こういう会話は楽しいが、やはり誰とでも、というわけにはいかない。しかし、初対面の人とこういった掛け合いができることもある。何気ない会話から、そのような共通認識を探り合い、読み取ったり汲み取ったりしながら、話を弾ませようとする。楽しい。

わかりあう、とはこういうことだと思う。存外、自分が思っているよりも多くの人とわかりあっているものだし、わかりあおうとしているわけで、それはわかりあうことが楽しいからだ。自分が嫌いな人とも、意外なところでわかりあっている場合もある。それがわかっただけで、あまり嫌いでなくなることもある。わかりあうことについて過剰な期待を持っていると、それは相手への強い要求となり、結果、人はわかりあうことができない、と絶望することになる。要するに、わかりあおうとしている人は、わかりあっている人たちは、「わかりあう」という言葉を使わない。「わかりあおう」とも言わないのである。それは、己にできることが、相手のことをわかろうとすることしかないと、わかっているからだ。