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マラソンや駅伝と女子力は相性が悪いのか

12月のことを、師走という。
坊さんも走り回るほど忙しい年末を表している言葉だ。
しかし、新年になっても、人は走るのだ。たすきをつなぐために。

毎年毎年暖かい部屋でそれをただ眺めている時間は、誰もが経験したことだろう。ふと疑問に思うのは、そこに女子力がないことである。

他のスポーツ番組を思い出してほしい。サッカーにしても野球にしても、必ず応援する女子がクローズアップされる。運動番組にしても然り。運動と女子の応援はセットとなっているのが通常である。しかし、マラソンにおいて、そのような女子がクローズアップされることはない。

例えば
「わたしはサッカー部のマネージャーをやっていました」

「わたしは野球部のマネージャーをやっていました」

なんて女子は掃いて捨てるほどいるわけだが、

「マラソン部のマネージャーをやっていました」

という女子を見たことがないし、取り上げられているのも寡聞にして知らない。これはなぜなのか?そんなことがありえるのだろうか?なぜ女子はマラソン男子を支えないのか。そのくせ、マラソンや駅伝の際に沿道に立って旗を振るのか。そもそもあの手の番組は誰が見ているのか。どのように楽しんでいるのだろう。そう思ったことはないだろうか?

?マラソン部っていうのかな?なに部って呼ばれてるんだろう?駅伝部?陸上部?

とにかく、女子力がない。それでいて、人気がないわけでもない。人気があるわけでもないが、一定の層に受け入れられているのもまた事実。こたつに入って雑談しながら、走っている姿をなんとなく眺めている。これはいったいなんなんだろう。

例えば、サッカーであれば「ゴールを決めた瞬間」などの盛り上がる瞬間があり、それをみたいがために、人は押しかけ、ときめく女子もいるわけだ。ラグビーにしてもトライという魅力があるが、ちょっと人がゴミゴミしすぎてわかりづらいところがある。そこで、わかりやすく五郎丸のポーズラグビーにおける盛り上がるポイントとして、定着させようという動きが盛んになっている。

今、市民権を得ているあらゆるスポーツには、こういった瞬間的で爆発的な快感ポイントを有しており、それに向かってプレイし、その興奮が魅力となっているわけだが、マラソンにそのような快感ポイントはない。ただただ苦しそうに走っているだけなのだ。しかし、それを楽しんでみている人たちがいるのだ。なんなら沿道までそれを見に行く人たちもたくさんいるわけで、それはF-1や公道レースのそれと似ているが、決して同じではないように見える。

マラソン番組に女子力は必要ないのだろうか?なぜ女子力を加えようとしないのか。ないよりは、あったほうがいいに決まっている。

しかし、マラソンには盛り上がるポイントがない。抜いた抜かれたというのはあるが、一喜一憂するほどのことではないし、見た目のインパクトもない。ずーっと走っているわけなので、女子をアピールする尺が取りにくいこともあるだろう。実際に走っている姿を応援できるのは、走っている姿が見えている時だけであり、伴走しながら「がんばれ〜」と声をかけ続けるわけにもいかない。走っている姿は苦悶の表情なわけで、お世辞にもかっこいいとは言えない。スタイリッシュではない。女子が男子を楽しむメジャーな視点ではない。とにかく、女子力とマラソンは相性が悪そうだ。マラソンに応援女子が登場しないのは、こういうことなんだろうか。

では、なにを楽しんでいるんだろうか?

ここで大胆にしてくだらない仮説を立ててみる。

マラソンは他のスポーツと比べて、競技として盛り上がり、競技者としてのプレイスタイルと時間のバイオリズムが異なっているわけだが、両者のバイオリズムの特性と酷似したものを見つけた。

男性と女性の性的オルガズム曲線である。

野球でもサッカーでもなんでもいいが、この手のスポーツとをAとし、マラソン系をBとする。

Aにおける競技の盛り上がりは、男性的オルガズム曲線を描く。平常時の興奮は低く、だらだらしたものになりがちだが、ゴールの瞬間、インパクトの瞬間、随所での素晴らしいプレーの瞬間、快感指数はピンと跳ね上がる。プレイヤーも観客も、ここで絶頂を迎えるわけで、観客はこの時を待望しているし、プレーヤーは、この時のためにプレーをしている。絶頂の後は、また平時に戻る。この落差が非常に男性的であり、男性にとっては馴染みある快感であり、とっつきやすい。女性としても、この手の爆発的快感に対する願望があるだろうことは容易に想像できる。

一方で、競技Bのオルガズム曲線は非常に女性的だ。徐々に高まり、Aとは比較的高い興奮状態が長く続いていくわけだ。興奮は、競技をとおして極端な盛り上がりはなく、高い水準でたゆたっている。選手も、ずっと苦しそうな顔をして走っているわけだが、ランナーズハイを味わっているに違いなく、その快感は決して瞬間的爆発的なものではない。そして、ゴールの瞬間に解放されるわけで、その余韻はAと比べて長く深い。

つまり、マラソンという競技自体が、その楽しさ、快楽における女子的な構造をもっているということが考えられる。そしてその構造を真に理解できるのは、女性しかいない。つまり、競技自体がすでに女子力の発露であると言えるわけで、それは潜在意識への直接的なアピールであるがゆえに隠微な一面を持つ。つまり、ただ、走っている人を見て楽しむことは、その姿に女性的オルガズムの構造をかいま見ていることになるわけで、それこそがマラソンの魅力であり、だからこそ、女子力を前面に出すわけにはいかないのだ。それは、本質的に女性的オルガズムに対する応援となるわけである。また、女性が女性的オルガズムに対してあからさまに熱狂することにも、はばかりがあるのかもしれない。このへんは男性のわたしには想像することしかできないのだが。ま、妄想なんだけど。