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必要な時に必要なものを必要なだけ取り出すことのできる能力

なんともいえない話
「ネットでは印象悪かったけど会ってみたらいい人だった」とか「最初のあまり好きじゃなかったけど、アノことがあってから、彼のことが気になるようになった」とか「ヤンキーが更生したことがやたら持ち上げられる件」とか。

「実は」な話。

こういう、最初に持った悪い印象が、後の行動で良い印象に変わっていく現象ってあるじゃないですか。自分にも身に覚えがありますが、こういった現象は、たいてい本人の錯覚だと思うんですよ。「人の印象はどのように判断され、変異しているのか」っていうことのおぼつかなさを表しているともいえるわけですが。

で、詐欺師や営業がよく使う魔法のひとつに「フットインザドアテクニック」なるものがありまして、それは、最初に悪い条件を出してそれを断らせてから、本当に出したかった条件を出すと、相手が譲歩したような気になり、その条件がよく見えてしまう、というものです。これは手品の一種であり、人間の心理的死角にうまく回り込んで一撃喰らわせようという趣向なわけですが、上記のような錯覚も、この心理的死角が影響していると思うんですよね。

もちろん、そうじゃない場合もあるんでしょうが、例えばこれが逆で「良い人」が実は「悪い人」だった場合のことを考えてみても、後の印象が強く残りがちなわけで、後から出てきた情報の方が信ぴょう性が高いと感じてしまいがちで。

何が言いたいかって「それは錯覚かもしれない」「間違っているかもしれない」っていう疑問を持つことは、簡単なようでかなり困難なことなんだと。だからこその錯覚だし、間違えるわけで。

そのようなことがあった時に、知識があれば「これはこういうカラクリがあるかも」「それは詐術の一種だよ」なんて一旦立ち止まって考えることができるかもしれないって思うわけですが、実際はそうとも言えないわけで、ある局面で、瞬発的にその知識を引き出せなければ知識は役に立たない場合が多く、死角をついて錯覚を誘う手口も日々更新されていくわけで。いたちごっこは終わらないわけで。

実際にフットインザドアテクニックは、かなり陳腐化した手法なんですよね。「営業のテクニック本」とか「日常に使える心理学の本」なんかどこにでもいくらでも置いてあるわけですが、ほぼ100%書いてある情報なわけです。ブログなどは言うに及ばず。同時に、この手法の亜種も多くあるわけで、それはこのテクニックを知っているだけでは防ぎ得ない錯覚と言えるわけで、だからこそ錯覚なんだけど。

そしてこのようなテクニックに関する情報や知識が世に多く出回り、広く知れ渡った以上、それをいかに必要な瞬間に取り出して、工夫し、応用し、実践するかってことが問われているわけで。その辺に落ちている知識やテクニックを拾って自慢げに開陳することは猿にでもできるわけで。それが血肉になっていることを証明するには、そこから一歩先に行かなくてはいけないわけで。それは、それら誰もが事前に得られる情報を意識させないことをもって証明されるわけで。「教科書どおりのやりかた」では、一点も取れないし、誰も感動させられないわけです。さればこそ、新しいものが求められるし、評価されるし、それは創作なんだろうなあ。

こればっかりは人工知能にもできないだろうし、仮にできるとしたら、それは人間よりもよっぽど高次元な存在だから、嫉妬するわな。壊しちゃうかもしれない。それが賢かろうと、便利なものだろうと、人間が人間に制御できないものを作るのは考えられないし、そうなって欲しくもない。それは子供のような好奇心の追求でしかなく、周りに与える影響もその後のことも考えていない、倫理観も責任感もないひとりよがりな行為だと思うから。マッドサイエンティストって、そういう人なわけでしょ。

なんか人工知能で文章を書いたり、小説を考えたり、そのようなものが研究されているようだが、将棋における人工知能vs人間のようなもので、勝負のための用意の一助とはなるが、だからといって人間同士の闘いならではの魅力が色あせることはなく、再現できるものでもないわけで、その本質は心理的攻防といっても差し支えない。それが人工物によって正しく測定され、人間が正しく認識できるようになった時、満を持して、人類は自らの手による何度目かの終焉を経験することになるわけだが、それはまだまだ先の話であった。