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はてなブックマークの瞑想の人

はてなブックマークを使っていると、何かにつけてやれ瞑想しろだの、恐ろしいだのいう人をみかけたことがあるだろう。みんなはあの人をみてどう思っているのだろうか。別に瞑想がダメだというつもりはないのだが、あの人が瞑想を持ち上げて他人を腐すのを見るにつけ、気分が悪くなる。ああまた嫌なものをみてしまったと思う。それは、おかしみを全く含まない気持ち悪さで、冗談が通じない類の人に対するそれだ。ネタなのかもしれないし、そう解釈している人もいるかもしれない。だとすれば「瞑想をすすめること」がネタになってしまっているわけで、あれほど瞑想をすすめる彼にとって、それは本望とはいえまい。仮に瞑想の良さを伝えようという意思があるのだとしたら、あのイケダハヤト的な他人を腐す煽りは一体どう解釈すればいいのか。全く理解に苦しむ。

以前に瞑想をすすめる記事があったが、その文章は、なぜ必要か、ということだけに集中しており、瞑想によって、それが解決される、としか書いておらず、どうしてそうなるのか、について具体的な解説はなにも書かれていない。つまり、瞑想である必要性がなんら示されていないのだ。なぜそこまで瞑想にこだわるのか。他にはなにもないのか。彼の言う瞑想の果てにはなにがあるんだろう。人を煽る前に具体的な言葉にすることに時間を割いてほしい。

スティーブジョブスは、禅の思想に傾倒し、瞑想を嗜んでいたという。彼の死をきっかけに、彼の言動が一時期もてはやされたことがある。会員制ジムのような瞑想倶楽部がテレビで取り上げられたこともあった。それは狭苦しい屋内の壁際にコの字状に座布団が並べられ、目の前の壁に向かって瞑想をするというものだった。思わず失笑した。それなら家でできるだろうに、なせ金を払ってそういう場所に行き、隣と肩が触れ合うような狭苦しさの中、壁に向かって瞑想するのかと。アホかと。で、ジョブスの死後、もう四年が経っているのだが、そういった瞑想できる場所はどうなったんだろう。健在なのだろうか。調べるのもめんどくさいが。

瞑想をすすめる人たちの、実践している人たちの生活が一切見えてこないのは、いったいなぜだろうか。それがはっきりと有用なものであれば、具体的に伝えようとする動きがあってもいいはずだが、そういう具体性を持った記事は皆無に等しい。瞑想の有用性についての反論は、その人たち言動をみれば一目瞭然ということなのだろう。

思考実験として、例えば、イケダハヤトに瞑想のPR記事を書かせたらどうなるだろう。書かせるのは簡単だ、金を払えばいい。これにみなはどのような反応をするだろうか。そしてその意見は傾聴に値するだろうか。誰なら耳を傾けるだろうか。どういう構成の主張であればよいだろうか。それはなぜだろうか。

ちなみに、わたしの家は真言宗で、「密教瞑想法」なる書物が家に2冊ある。おそらく兄と母が読んだのだろう。わたしはこの書物の存在を数年前に知った。

密教瞑想法

密教瞑想法

まえがきしか読んでいないので、これについてなにか書くことはできないが、パッとみて、一度で理解できる内容ではないことは間違いない。こうすれば、こうなります。というのが非常にわかりにくい。まあ、どんなものでもそういうものなわけで、むしろわかりやすく書いてあるもののほうが胡散臭いわけだが、やはり簡単に、短期に、わかりやすい変化を得られるものではなく、そうであるがゆえに曲解され、広まらないのは仕方がないことなのだろう。現にわたしも本があって興味があるのに手に取ることをためらっているのだから。まあ、他の瞑想に関する本は読んだのだが。

こういった事柄を人にすすめるには、自分の背中を見せる誠意がなければならず、上に書いた人は、背中どころか、眼球しか見えていないので、広まらないどころか「ほんとうに?」と思わざるをえないし、瞑想でたどり着いた境地がああいった他人を否定して回ることなのであれば、御免被りたいと思うのが人情だろう。啓蒙したいのなら、やりかたがある。あのやりかたは、考えられる中で一番よろしくないやりかただ。北風と太陽の話で例えれば、吹雪のようなものだ。そうなってしまうのは、彼が瞑想で受け取ったものがその程度だったということだろう。慈悲もなければ噛み砕いた具体的な説明もなければ、その結果がわたしたちの目に見えないのだから。

ネット上の文章を見たところ、強い言葉を並べて相手を否定しているだけにしか見えない。それを読んだ相手が「ああなるほど」となるとでも思っているんだろうか?独りよがりにもほどがあると思うのだが。そんな彼も、瞑想によってようやく大脳を保っているわけで、それでもなお独りよがりなのである、彼が否定している輩と同じように。恐ろしい恐ろしい。