クリスマスが好きではない理由

この時期になると、決まって、サンタはいるのか問答が繰り広げられる。ここでいうサンタとは、親が演じるものでもなければ、何丁目に住んでいるおじさんのことでもない。おもちゃ売り場のレジで支払いをする人たちのことでもない。どこに住んでいるのかもわからない、白い口ひげを蓄えて、トナカイを従え、ソリに乗って空中を駆け巡る、形而上学的存在としてのサンタだ。

そんなものはいるわけないんだけど、それを言うと、とても嫌な目を向けてくる人たちがいる。

わたしは、子供の頃、親や大人が演じる役割としてのサンタは信じていた。つまり、物語上のサンタの存在はあくまでも架空のものとして認識していた。それは動物的本能のごとく、当たり前のことだった。欲しいものは親にねだった。プレゼントは、親が買ってくれるものと知っていたからだ。だから、クリスマス近くなると、なにを買ってもらおうかと悩んだり、クリスマス後は、買ってもらったゲームのことばかり考えていて、架空のサンタのそんざいについてなどは、完全に意識の外にあり、どうでもよかった。とはいえ、サンタにまつわる話を信じるふりをしておいたほうが何かとお得だということも知っていた。子供とは、そういうものだと思っている。

つまり、サンタの存在についての話というのは、大人のための話題なのだ。

大人が、サンタについての感動する話や解釈を持ち寄って、いかにキレイ事で感動させるか、子供に夢を見させるか、という弁論大会のようだ。それがとても気持ち悪い。この手のいい話というのは、聞いていて鳥肌が立つ。子供は年をとると、サンタがいないことにいつか気づく。わたしは、このような「大人の優しい嘘」に気づいて号泣した経験があるが、その時のフォローはなにもなかった。そしてクリスマスについても同様だ。キレイでいい話をさんざんするのだが、子供がそれに夢を持って、それがいないとわかった時のフォローなどはなにもない。「サンタなんていないじゃないか!」と言われたら、一体なんというんだろう。苦笑いするくらいしかできない。そういう欺瞞に気づいた子供も、正直に告白したいところだが、それが損をする行為だとわかっているので、騙されたふりをするしかない、というのが本当のところだ。

クリスマスは、大人のためのエンターテインメントなのである。

大人の都合のために、適当にキレイな話を作って子供を巻き込んでいるのが、本当のところだ。そして、お互いの利益のために、本当のところには触れないでおこうというのである。ズルいというか、したたかというか。恐れ入る。もちろん、この行事を否定するわけではないし、参加するなら、楽しむことができる。多分嘘もつくだろう。それとこれとは別の話だ。そこまで反社会的ではない。ただ、子供になんらかの後ろめたさを感じるだけだ。

クリスマスは、こうして共有され、続いてきたのだが、その空虚さが、わたしはどうしても好きになれない。これは、エンターテインメントとしての好き嫌いだ。わたしは謎解きやミステリーや勝負事などの頭を使ったり、真剣さを競うエンターテインメントが好きで、クリスマスのような、みんなで嘘を共有し、飾って、その空気を楽しもう。多少のアラは見なかったことにするように、という謎もトリックも結末もない、ふんわりと現実を包む類のエンターテインメントがあまり好きではないのだ。