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ぼんさん

  •    いつかの夏。クーラーも風呂も日当たりもない鉄筋コンクリートの六畳間。蜃気楼が扇風機の風に漂う中、パンツ一丁で布団を蹴飛ばして無理やり眠っていた。
 
   ドアをノックする音が俺を現実に引き戻した。やっと眠りについた頃だったのに。手探りで携帯をつかむ。朝の九時前だった。無視した。ノックは少しづつ強くなる。誰だかわからないがさっさと相手をして眠ろう。汗ばんだ体をゆっくりと起こし、脱ぎ捨ててあった肌着に首を通しながら玄関へのたのたと向かった。
 
   のぞき穴から見るドアの向こう側には、きやびやかで見慣れない柄の布が映った。寝起きの頭は混乱した。そろりとドアを開ける。袈裟だった。袈裟を着てニット帽をかぶった男がぎこちない笑顔で立っていた。
 
「いやーどうもどうも」
 
   ドアノブを持って口を開けたまま、袈裟の生地の細かな紋様に吸い込まれていた俺は、その声を聞いて眠気が吹っ飛んだ。小さなショルダーバッグを背負いコンビニ袋を提げた坊主は、悪友のAだった。
 
「いやー追い出されちゃいました」
 
   バツが悪そうに笑うAを薄暗い部屋に招き入れた。ニット帽を脱いだ頭は、綺麗に剃りあがっていた。裸電球のスイッチを点けたが、薄暗いままだった。俺はラックからタオルを出して体を拭きながらせんべい布団に胡座をかいた。袈裟を脱いで肌着とパンツの姿になったAは汗だくだった。Aにタオルを貸してやり、扇風機の前に座らせた。
 
   Aも俺も、生きるのが下手くそだった。俺より早く人生に行き詰まったAは、実家の寺を継ぐために東京を去った。そして寺に入って修行をするためにまた東京へ来た。そこまでは知っていた。
 
「一体なにをやらかしたんだ」
 
   Aは、コンビニ袋から缶ビールを取り出して俺に渡した。軽く乾杯を交わし大きく一口飲む。仏門に入ったAは、修業先の東京の寺で同じような遊び人の修行僧と意気投合し、二人で夜な夜な寺を抜け出しては、盛り場を遊び歩いていた。それが寺にバレて二人とも追い出されたのだと言う。手持ちの金は、手のひらに乗るくらいだった。
 
「こんな時間に暇してて、相手をしてくれるのお前しかいないから」
 
   Aは、魚肉ソーセージを頬張りながら言った。俺はワキの汗を拭きながら確かにその通りだと笑った。「何度も電話したんだけど」と言うので、携帯を確認したら、公衆電話から何度も着信が入っていた。
 
Aの家庭環境はかなり複雑で、既に寺の跡取りは決まっており、坊主になっても寺は継げなかったようだ。
 
  Aはここに住ませてくれといった。一緒にお笑いをやろう、と。俺はどちらも即答で断った。他人と同居をするのは嫌だった。俺は以前にも、着の身着のままで上京してきた同郷の友達を住まわせていた。いつも些細なことで喧嘩になった。そいつは一ヶ月もしないうちに女を作って出て行った。お笑い芸人になるなど、もってのほかだ。世渡りが下手で行く当てのない二人が再開し、お笑い芸人として華を咲かせる。そんなものはドラマの話だ。どうせいくつになってもうだつの上がらない呑んだくれになっているに決まっている。
 
   ビールを飲み干した俺は、缶を潰してコンビニ袋に突っ込み、台所に向かい冷蔵庫から缶ビールを二本取り出した。ふと目を向けた台所の窓は、快晴の雲一つない青い空を切り取っていた。一本をAに渡し、空の缶を受け取ってコンビニ袋へ放り込む。俺はAに聞いた。
 
「とりあえず実家に帰れば?」
 
   Aはできないと言った。これまで散々迷惑をかけてきて、さらに恥を忍んで実家に戻り、かけてもらった情けをも反故にしてしまったのだから、と。電話もしていないと言う。
 
「とりあえず電話しろよ。貸してやるから」
 
   渋るAを何度も何度も説得した。ようやく重い腰を上げたAは俺から電話を受け取ると、静かに部屋を出て行った。俺は、すっかり温くなったビールを一気に流し込んでうつむいた。温く澱んだ熱気がまとわりつく。扇風機のモーター音がやけに大きく聞こえた。外からAの声が少しだけ聞こえてくる。俺はテレビとプレイステーション2の電源を点けた。音を大きくしてニュースを見ながらプレイステーション2が立ち上がるのを待った。
 
   一時間ほどして、Aは目を赤くして帰ってきた。
 
「どうだった?」
 
   ゲーム画面を見ながら、素っ気なく聞いた。
 
「電話してよかったよ。ありがとう」
 
   実家の母親と何を話したのかはわからないし、聞かなかった。
 
Aは来週に、実家に帰ることになった。家族会議でもやるのだろう。金を送ってもらえるそうだ。それまでは俺の家に泊めてやることにした。俺はもう一つのコントローラーをAに向けて放った。
 
   俺たちは、じっとりと汗ばんだ体を首にかけたタオルで拭きながらサッカーゲームをした。コンビニ袋が一杯になった。しかし俺の意識は心の殻の中にあった。Aが俺を頼ってきてくれたのは嬉しかった。憑き物が落ちたようなAの顔を見て、少し潤んだ。同時に心にかかっている灰色のもやがより濃くなっていくのを感じていた。Aは俺に一番弱い部分を見せた。俺にそれができただろうか。親に電話できただろうか。できなかっただろう。俺はAを通して自分に説教していたんだ。何度も何度も。それが情けなかった。悔しかった。Aが羨ましかった。
 
   馬鹿を言いながら笑ってゴールを決める俺を、俺は冷ややかに見ていた。
 
 
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