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障害を持つ子供と親に対する倫理的な問題とは

妊娠中に、子供の性別がわかるようになった。しかし、男だから、女だから、産まない、という考えを持っている人は少ないだろう。

障害を持っているかどうかも、そのうちわかるようになるだろう。これに関しては、なんとも言えない。産まないという選択をする人は多いだろう。できれば健常者を産みたい、と思うのは人情だ。誰も否定できない。

しかし、誰もが健常者のまま天命を全うできるわけではない。転んだ拍子に頭を打って、病気になった影響で、事故にあって、いろいろな理由で障害を負うことはいつでも誰にでも起こりうる。特に幼少期は体が弱く、病気にかかりやすい。危険に対する嗅覚もにぶいため、けがをしやすい。そういった影響で障害を負ったという例は多い。中学生や高校生であっても同様だ。また、幼少期のトラウマがパニック障害なども原因となる。ふとしたことから、その時の経験がフラッシュバックして錯乱してしまうのだ。

何より見ていて辛かったのは、後天的に障害を負ってしまった子供の姿を受け入れられずにいる親を見たときだ。もちろん放ったらかしにしているわけではないが。家族の関係に小さなヒビが入ってしまうかもしれないことは否めない。離婚をすることもあるだろう。自分の人生を生きたいと思うだろう。それでも子供をほっておくことはできないだろう。そのような葛藤の毎日だろう。ギリギリのところで自分を保って、奮い立たせて生きているんだろう。そう思うとやりきれない。

もし、自分に子供がいて、すくすくと育って、さあ人生はこれからだという時にこのようなことが起こってしまったと想像したら。うまく気持ちを切り替えられる自信が無い。だから子供を育てている人を見ると、私には知りえない悩みや迷い、不安を乗り越えてきたのだろう。そして今もその中にいるのだろう。そう思う。だからこそ、子供はかわいいのだろう。尊いのだろう。元気な姿を見ているだけで穏やかな気持ちになるのだろう。もう一踏ん張りできるのだろう。子供がいない私には想像することしかできない。しかし、そんなものは所詮想像であって、現実のそれには遠く及ばない。

妊娠中に、子供が障害を持って生まれてくることがわかったとき、産むか産まないかの判断を迫られた時、どのような思いで決断を下すのだろうか。それでも産む、という人はいるだろう。こうした検査が当たり前のものになった時、そのような決断に、世間はどのような目を向けるのだろうか。障害者を見る目は、これまでとどう変わるのだろうか。悲しい事故で後天的に障害を負ってしまった時、その現実とどのように向き合うのだろうか。

全体的な障害者の数が減れば、一人ひとりへの福祉は厚くなるだろう。保護者への経済的な、精神的な援助もより行き渡るようになるだろう。しかしそれは現在の規模を基準に予算を減らさない、という前提が必要だ。障害者を減らすことそのものが目的では意味がない。その予算を別に回そうという動機でもダメだ。障害を持つ人、その保護者への福祉に、様々な厳しい現実を生きる人たちにより予算を割けるように、そこを第一に考えた方策であればいいのだが。産むかどうかということはもちろんだが、生まれてきた人に対する取り組みも同じく倫理的な問題ではないだろうか。