20151117

前にニュースでシリアが空爆された映像が放送された。爆弾を積んだ戦闘機の投下口からの俯瞰の視点で、白黒映像の中央に+印のポインタがある。投下口から音もなく落下していく爆弾はどんどん小さくなっていき、着弾し、小さく爆ぜる。

以前、アメリカがどこかを空爆した時の映像もニュースで見たが、同じような映像だった。どこの誰が言っていたか忘れたが、白黒であることにも、音声が無いことにも重要な意味があって、それは見ている側に戦争の感覚をもたせないため、血の色も硝煙の香りも消すため、ということだった。思い返せば白黒でなくとも、盛大な爆発音や人が撃たれる瞬間、倒れていく瞬間をテレビで見た記憶は無い。テロが起こってもその映像や音声には必ず編集が入っている。ケネディが撃たれた映像も9.11の時も同様だった。

そのような瞬間は、私の記憶では唯一オウム真理教の村井が刺された時くらいなものだったが、それも人混みに紛れる形のもので鮮明な瞬間とは言い難いものだった。あの時の村井の刺されたあと大袈裟に騒ぎ立てることも痛がることもせず、少ししてふっと顔を歪め流れるように崩折れていったあの瞬間は、これまでに見たテレビドラマの刃傷沙汰とは異なるものだった。

もし、それが真実だとしたら、その編集にはどのような意味があるのだろうか。もちろん視聴者への配慮があるだろう。不意に鮮明な殺人の瞬間など見せられてはたまったものではない。しかし加工された映像は真実の瞬間とは言えない。それは真実では無い。

それは戦争に直接的に関わりが無い、もしくはどちらかといえば空爆をする側に属している私たちのような人たちに向けて加工されたプロパガンダ的意味を持たせた映像と見ることができる。人が住む場所に向けて、おそらく事前に知らせることなく空中から爆弾を落とす。とりようによっては卑怯な虐殺とも思えるが、映像を白黒にし、音声を消すことでその残虐性や現実感を軽減している。

実際、その落下音も爆発音も色彩も無い空爆の映像を見た時、その爆発でどんな場所が破壊されたのか、どれくらいの人たちが死傷したのか、ということが意識から抜けていた。それは数字で表された情報で理解できるものではない。

ゲームやドラマ、漫画やアニメなどではそういった残虐なシーンや行為を「子供が真似をするから」「子供の残虐性を刺激するから」などといった見解から(自主)規制しているが、それは白黒だったり音声のなかったりする加工された真実の瞬間の映像と同じ意味だ。しかしそれは逆に残虐性に対する感覚を麻痺させているように、想像力の欠如につながっているように思えてならない。要するに私たちは部外者扱い、子供扱いされているのだ。真実を知らない部外者や子供の発言に当事者が耳を傾けることは無い。海外に目を向けるまでもなく、私たちの身近には卑怯で卑劣で愚かな言動が満ちている。やっていることの本質は大差ない。

原爆被害者の声には、戦争に参加した老人の声には確かに説得力がある。しかしそれを聞いただけ、本で知っただけ、加工された映像を見ただけの私に何を言うことができるのか。何かを言うには知らないこと、わからないことが多すぎる。「テロよくない」と断じるのは簡単なことだが、そこに当事者の真な切実さや現実味が備わっているわけはない。だからといって見ざる言わざる聞かざるでいいのだとも思えない。知ることのできる事実を遡っていくしかない。必ず原因があり、それに対処できなかった結果であると考えるしかない。私たちは被害者であり同時に加害者でもあるのだろうが、一体何をどうすればいいのか。テロリストはなぜテロを起こすのか。テロリストを駆逐した先に何があるのか。中立な視点はどこにあるのか。私は中立でありたい。どちらの立場でもありたくない。関わり合いになりたくないし、関わろうとも思わない。しかし、産まれてしまった時点ですでにどちらかのなんらかの政治的な立場の人であり、その中で生きなければならないわけで、それは私に決められることではない。ある程度年をとると、立場を変えることができるようになるだろう。私はできることなら政治的な立場の一切を捨てて生きていきたい。しかしそれで過去が清算されるわけではないし、それでは生きてはいかれない。つまり傍観するよりない。それはとても卑怯なことなのかもしれない。しかし、政治的立場を自覚して生きてきたという実感がない私が、他の政治的立場に対して何かを言うことは好ましいことではないだろう。そして、ある政治的立場をとりたいという欲求もない。それを知ったところで、多分結論は変わらないだろう。この後の人生で、その必要に迫られることはあるかもしれない。そうせざるを得ない事態に直面するかもしれない。しかし真に支持したい政治的主張や歴史というものは私の知る限り存在しない。もちろんそれらを否定するわけでもない。被害者にも加害者にもなりたくはなかった。傍観者だと思っていた。傍観者でありたかった。少なくとも、実感できる範囲の中での被害者や加害者でありたい。一方的に被害者面したいとは思わない。ことさらに生まれる前から加害者であるという原罪の意識に苛まれるのも御免だ。そんなことを思いながら、いずれテロの中で死んでいくのかもしれない。知らぬ間に加害者になり、そして被害者になっているのだろう。生きる糧を求めてヒトにとまり、無慈悲に潰される蚊のように。

フランスでのテロを伝えるBSのワールドニュースを見ている。被害や現状について語られている。ただ、その原因について、その背景についてキャスターは何も語らない。

とりとめのない思いが去来する。いつか、この思いが変わることはあるのだろうか。
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